終わりの感覚

 ジュリアン・バーンズの2011年度ブッカ―賞受賞作『終わりの感覚』を読みました。週刊文春のミステリー時評で推薦されていたので、読んだのですが、やはりジャンルとしてのミステリーではないですね。ミステリー的な部分もある純文学(今でもこんなジャンル分けが通用しているのかな)ですか。ジュリアン・バーンズ自身も別名でハードボイルド小説を書いているので、サスペンスフルに読者を引っ張っていくテクニックには通暁していると思うし。
 さてこのタイトルは当然のようにフランク・カーモードの『終わりの意識』にインスパイアされてのもののようです。小説理論の研究書ですが、西欧の時間意識、作品の結末などを扱ったもので懐かしいです。
 『終わりの感覚』の方は、60代半ばになった主人公トニー・ウエブスターの高校生・大学生時代の前半と、40年前の恋人の母親から残された遺品を巡って、別れた恋人と親友の過去の真実を探ろうとする現代を描いた後半の2部から成る物語です。特に前半の若者のペダンティック歴史観が後から効いてくる、伏線の張り方がうまい。きのう一読、きょう再読してそう感じました。
 高校の歴史の授業で、先生がヘンリー8世の時代について質問をするのですが、あまり出来のよくないマーシャル君の「混沌としていました、先生」という回答にみな冷笑する。ま、確かに何にでもあてはまるような回答です。そして別な歴史の時間での第1次大戦勃発の責任について、エイドリアンは、個人的責任の連鎖があると答えます。このエイドリアンが、転校してトニーたち3人の仲間に入ってくる頭脳明晰な少年で、後にオックスフォード卒業時に22歳で自殺してしまいます。
 さてこの平凡・明晰という2つの回答が組み合わさった「責任の累積があり、その向こうは混沌としている。」というのが、長くない(中編だそうです)小説の語り手トニーによる結びの言葉ですから、複数の歴史意識をちりばめている訳です。
 青春小説的な前半で、トニーは進学したブリストル大学で恋人ヴェロニカと出会います。彼女のチゼルハースト(ロンドから20キロくらいの郊外)にある実家に招待され、父親と兄には階級差のためか皮肉っぽく扱われますが、少々変わった母親にある印象を抱きます。このヴェロニカの実家が特に上流とも思えないので、トニーが中流の下の方、ヴェロニカが中流の上の方に位置するのかなと思いました。
 トニーは、ヴェロニカと別れた後、エイドリアンから彼女と付き合っているけれど悪く思わないでほしいという手紙をもらいます。そして卒業したトニーは半年ほどアメリカ放浪の旅に出ますが、帰国後友人からの手紙でエイドリアンの自殺を知らされます。トニーの母親は頭がよすぎるのは自殺したりするんだから、あなたは頭がほどほどにいい程度で良かった、という妙に俗っぽくてかつ現実的な感想が印象に残りましたね。
 そして40年たち、平凡な人生を送って、まずまず満足げなトニーのもとに、ヴェロニカの母親から500ポンドの遺産とエイドリアンの日記を残されます。しかしこの日記をヴェロニカがトニーに渡さず、そこからこの二人の一方的ともいえる交流が始まります。なぜ、トニーにとって元恋人の母親から少額のお金(7万円位)と40年前に自殺した娘の恋人の日記を残されますのか。この辺りがミステリーと言えば言えますね。
 結末についてふれますので、ご注意。さてしつこくヴェロニカに問いただすトニーは、彼女から障害のある人物を見せられます。これは会わせると言うよりもその人たちがいるところに連れて行くのですが、この40歳くらいの男性がエイドリアンとそっくりの容貌をしているので、トニーはヴェロニカがエイドリアンの子を宿して、エイドリアンの自殺で動揺して障害をもった子度を産んだのではと想像する。ま、妥当な推測だと思います。
 しかし、最後にエイドリアンの息子の母親はヴェロニカの母であることが分かり、それならエイドリアンが自殺するのも分からなくはない。ヴェロニカとしては、母親が自分の恋人と関係して妊娠してしまったのだから、その恋人の日記をトニーに渡すことを拒んだことも理解できる。また母親の方がエイドリアンの日記を持っていた事も。
 実は高校時代にも同級生の少年が女性を妊娠させた事が理由で自殺した事件が第1部で語られていました。その時はずいぶんとお粗末な自殺事件として語られたのですが、後から相手の女性の痛みに気づかなかったことを後悔するトニー。これは「歴史と言うのは混沌としている」という平凡な回答をした出来のよくない少年のケースとと同様に、鋭くとがった意見が優秀な若者の特権だと考えていた事に対する、時間によるある種の復讐だと考える事もできます。つまり時間が経過してある意味で歴史となった事に対する、人生経験を経た大人の知見と後悔の念。
 例えば、平凡だけれど満足できる人生を送ってきたと思っていたトニーは、自分がエイドリアンにあてた手紙の中で、ヴェロニカに手を焼いたら母親に相談してみろと書いていた事を40年後に知らされます。これも記憶していなかった自分の言動の責任を知らされる例。
 それをトニーは責任の連鎖と小説の最後で語ります。語り手のトニーのある種の鈍さ、主観性も小説中で他の登場人物から指摘され、本人も記憶と実際に起きた事の違いについて自覚する事もあるのですが、この最後のコメントは作者の考えでもあるとするのが普通でしょう。そしてこの歴史観・時間意識は、ま、ごく普通の考え方で、冒頭と最後の時間についての詩的・哲学的なコメントはあまり鋭くないような気もします。
 それと母親と娘のヴェロニカや他の家族との葛藤が描かれていないのは、意図的なものなのでしょうね。語られない事の深みとか、曰く言い難い謎というのでもないのが、物足りないような気がしました。
 ですが、小説としては、ミステリーと言う他のジャンルとの比較も含め、歴史と個人の記憶の問題、イギリスの階級や男女間の関係、60年代生きた若者の意識、などがうまく描かれていてけっこう面白かったです。