ハイスミスとヘンリー・ジェイムズ

『キャロル』の原作からパトリシア・ハイスミスの作品再読をしています。例えば『太陽がいっぱい』の原作もストーリーは知っているので、文章や表現に注目して読んでいます。例えばだいぶ前に淀川長春が指摘していたトム・リプリーとディッキー・グリーンリーフのホモセクシャルな関係など。
 すると別な文学的関係が出て来ました。ニューヨークで造船会社を経営するグリーンリーフ氏はイタリアに行ったきり戻ってこない息子リチャードを呼び戻す事をトムに依頼するのですが、氏がそこでヘンリー・ジェイムズの本を読んだ事があるかとトムに聞きます。ここで英米文学について、またはジェイムズについて知っている人ならぴんときます。
 あとからヨーロッパに向かう船の図書室でトムは『使者たち』を探しますがありません。この『使者たち』はヨーロッパに行って戻ってこない息子を呼び戻すために母親が自分のフィアンセを送り出す話なのです。で、ジェイムズの小説のパターンですが、歴史や伝統のないアメリカ人がヨーロッパの伝統や文化に憧れて、そこから戻ってこない。呼び戻しに出向いた「使者」もまたヨーロッパの文化の魅力にひかれてしまうんです。『使者たち』では最後にヨーロッパ文化の退廃も知って、一種文化的な相対性を理解して終わるという話です。
 もう一つはトムの隠れ同性愛的な傾向も読み取れます。そのようなセリフもあります。またこれは以前もブログで指摘しましたが、トムの相手への同化・転移の問題。トムは背格好も容貌も似ていて、しかも裕福なディッキーにある種の憧れというか、同化的な気持ちを抱きます。そして結果的には殺してしまったディッキーになりすまして、サインも真似てお金を巻き上げる。
 これももう少し掘り下げるのは別項で。