白い黒人

実は今週の「英米文学」のために探していた自分のHPの掲示板に書いた下記の文章が見つからなかったのですが、別のファイルに保存してありました。ここに採録して自分の記録とします。

 ネラ・ラーセンの『白い黒人』を読む。ハーレム・ルネッサンスの最中1927年に描かれた黒人女性作家による作品だ。
 1927年といえば今書きあぐねている『ジャズ・シンガー』が作られた年でもある。ジャズ・エイジというかアメリカの大衆文化生成の時代。

 Passingという原題をもつこの作品は、白人といっても通用する2人の黒人女性が主人公。アイリーンは黒人の世界にとどまる。クレアは黒人である事を隠して黒人嫌いの男と結婚する。クレアは白人世界の物質的豊かさを享受しながらも、ハーレムに自分のアイデンティティーをみて足しげく通ってくる。
 最初は自分のエスニシティにしっかりと足を下ろしたアイリーンと浮き草の様に漂うクレアという図式が、次第に伝統的な人種間を持つ頑ななアイリーンと人種の境界を自由に超えていくクレアという関係に変わってくる。そしていろんな解釈のできそうなクレアの悲劇的な死。

 このパッシングというテーマはマーク・トウェインの『まぬけのウィルソンとかの異形の双生児』から、黒人男性作家ジーン・トゥーマーの生涯、インディーズの旗手カサベテスの『アメリカの影』、フィリップ・ロスの『ヒューマン・ステイン』(映画題は『白いカラス』)と共通する。

 実は今書いている『ジャズ・シンガー』論もユダヤ人と黒人の文化的交差についてだが、ユダヤ人→黒人→白人の問題を扱っている。浅黒い肌を持つユダヤ人は、いったん黒人のメークアップをして、それをぬぐった時に初めて白人としてアメリカ社会に登場する、という錯綜したエスニシティの戦略を利用している。

 共通するポイントは主流文化を担う白人の優位性が、他の人種を貶めていて、どこまで白いかがアメリカ社会での成功につながってしまうという事だ。
 ネット上では、マライア・キャリーは黒人かとか、コリン・パウエルが最近白くなってきたか、かなり適当な言説が横行している。ネット上の情報は新しく、多岐にわたっているが、信頼のおけないものも多いのだなとあらためて感じた。

 日本だと在日、アイヌ、部落の問題になる。憂鬱だが、自分の中にある無意識に刷り込まれた差別が最初の標的だろうか。

 ついでに?ナディーン・ゴーディマの新作短編集『ベートーベンは16分の一黒人』を思い出す。ベートーベンの縮れた髪や浅黒い顔、そしてジャズっぽい?交響曲7番やピアノ・ソナタから黒人説が囁かれていたらしい。
 『岩窟王』や『三銃士』のアレクサンドル・デュマのお祖母さんが黒人であった事は有名らしいけど。
 コリン・パウエルの白くなってきたのは、マイケル・ジャクソンのように漂白?などという冗談みたいな異見もあったけれど、僕の印象では歳を取ると人種的特長が露わになる。例えば、黒人ジャズマンにも混血は多いけれど、ギター奏者のケニー・バレルは中学の時(40年以上前!)に見た写真ではかなり白人っぽくみえたけれど、最近では黒くなっているような。若い時はハンサムだったけれど、晩年のバーンスタインユダヤ人の相貌が濃くなっていた。批評界のナタリー・ウッドといわれたスーザン・ソンタグの晩年はイスラエルの女性首相ゴルダ・メイアそっくりに見えた。