白い黒人その2

「パッシング」を主題とした映画がまだある。
 1949年のエリア・カザン監督『ピンキー』。『紳士協定』など人種問題には関心のある監督の問題作で、日本未公開です。ピンキーは北部の看護学校を卒業して故郷の南部に戻ってくる。彼女は北部では白人として過ごし白人の医師を恋人としていた。
 祖母の勧めで白人老婦人の看護をし見取った後、老婦人の残してくれた遺産で看護学校を開き、黒人として生きていく。

 もう1作はダグラス・サークの『悲しみは空の彼方に』(1958年)。34年にクローデット・コルベール主演で『模倣の人生』として映画化されているから58年のはリメークといえる。
 たまたまフィルム・ノワールと勘違いして研究費でサーク・コレクションを買っていた。ドイツ生まれのデンマーク人としてヨーロッパで映画を撮っていたが、ユダヤ人の妻とナチスを逃れてハリウッドにやってくる。どちらかというとメロドラマを主として監督していたが、ヌーベルヴァーグからその映像美を評価される。
 『悲しみは空の彼方に』は元の『模倣の人生』の方が原題に近く、白人と黒人の二組の母娘の肌の白い黒人の娘が白人の母親の方を憧れる物語となっている。

 いずれも未見だが、このテーマは深い。ウイキペディアでblack-to-white passingの文学作品を調べると、解放奴隷男性作家ウイリアム・ウエルズ・ブラウンの『クロテル、または大統領の娘』(1853)にまでさかのぼる。このテーマはバーバラ・チェース=リボウの『大統領の秘密の娘』やエリクソンの『リープ・イヤー』、『Xのアーチ』など現代文学の重要な作品とも関係する。

 『模倣の人生』は白人女性ファニー・ハーストによる1933年の作品だが、ネラ・ラーセンの『パッシング』と同じ1929年に黒人女性ジェシー・レドモン・フォーセットの『プラム・バン」 も黒人女性のパッシングを扱っている。

 パッシングのテーマの主人公は何故か女性が多い。理由は分からないが、男性の例を1件思い出した。ボリス・ヴィアンの『墓にツバをかけろ』(1949)だ。これはヴィアンがバーノン・サリバンという黒人男性作家と称して書いた一連のハードボイルド小説で、映画化作品はフィルム・ノワール風。
 『世界の黒人文学』(鷹書房弓プレス)をみると、ジェイムズ・ウエルダン・ジョンソンの『元黒人の自伝』(1912)は少年の時に黒人である事をしらされた黒人男性が、長じてジャズの演奏者となるが、南部でリンチを目にしてから、北部で白人として生きる事を選ぶ。黒人のアイデンティティーを主張する原題からみると消極的な選択に思える。

 何とかこのパッシングが今書きあぐねているユダヤ人と黒人の問題に繋がればいいのだが。
 元々中東のアラブ系、ハム・セム系のユダヤ人がアメリカで白人として生きるのは一種のパッシングかな?
 直前のコラムでも書いたけれど、アル・ジョルソンやエディ・カンターなどのユダヤ人の芸人が黒人のメーキャップをしているのは、自分たちはユダヤ人で同時に白人だというメッセージを伝えているという。
 しかしハリウッドに数多く存在するユダヤ系俳優の多くはアングロ・サクソン風の芸名に換えているのは、パッシングといえなくもない?
 エイサ・ヨエルソン→アル・ジョルソン、ジェイコブ・ラビノウィッツ→ジャック・ロビン。本人たちは意識していないけれど、一種の軽いパッシング。ミンストレル・ショーの黒塗りをして、それの黒人のメークアップを拭い去った時のユダヤ人の浅黒い肌は、相対的に白い肌になる(=見える)。