父と娘

 金曜日の専門ゼミで11名のゼミ生のうちトップ・バッターの発表。この女子学生は基礎ゼミの時の学生で映画が好きで、僕のゼミに入ってきた。テーマは「モンローと原節子における日米女性像の比較」というものでなかなか良かった。
 30分弱の発表、10名の学生からの質問・意見、それに対する回答、僕のコメントでほぼ90分。その中で『晩春』のやもめの父を気遣ってなかなか嫁に行かない娘の話を、エレクトラ・コンプレックスを例に出して説明する。
 でもそれは娘を嫁にやりたがらない父親の我儘と僕は解釈する。もう少し言えば、若い娘に対する中年男性の妄執のようなものとも。それは常々気になっているハリウッド映画の中年男性スターと若い女優のカップルが、中年男性が多い映画の作り手(製作者・監督)の潜在的な願望を表象しているのではないかという僕のあまりぱっとしない仮説とも関係する。
 例えばアメリカにおいて映画がストーリーを持つようになった初期の作品の中に、1903年エドウィン・S・ポーター監督の『大列車強盗』があった。1890年フロンティア消滅宣言が出された5年後の1895年に発明された映画という新しいメディアが、過去のものとなったフロンティアを神話化する物語を作り出したことになるが、その事をポーターは意識していたわけではない。
 また最初のトーキーである『ジャズ・シンガー』におけるユダヤ人の伝統とアメリカ化の葛藤の物語はワーナー兄弟が無意識に選び出したテーマだった。
 これは潜在的なというところが重要で、意識している願望なら自己規制してしまうだろう。多分、彼らは自分たちの願望に気づかずに、このようなキャスティングをしてきたのだと思う。このあたりはまた詳しく考えてみたい。