教養の没落

 教養再考(再興?)は僕の重要なテーマの一つだ。再興となると没落したお家の復活のようで時代劇か?これは11年前の1998年に教養部が廃止された時から、その再興ではなく再考がそれまでの自分のいた場所の確認という意味で自分にとって必要な作業だと思った。
 まず大学における教養。学部の専門教育を担っている教員は大学4年間(就活をのぞくと3年間強)のうち2年間をとられる教養を敵視していたような気がする。無用と思わないまでも、1年生から学部教育を始める、いわゆる楔型のカリキュラムを望んでいた。
 そこの1991年当時の文部省の出した大きな方針転換である大学設置基準大綱化によって、教養課程の人文科学・社会科学・自然科学および英語・体育の必修がなくなり、各大学はそれを受けて、新カリキュラムを検討した。それは専門教育強化の絶好のチャンスとなり、結果的に教養部を廃止してしまった。
 それには教養教育を担当する自分たちにも教養教育に対する確固とした理念と具体的な展望が欠けていたと反省している。それは専門教育についても同様なのだが、一見あいまいな教養についての方がよりきちんとした見解が必要とされるのだろうと思う。

 で、それ以来、というかその前後から教養についての自分なりの見直しをしてきたのだが。一般教育委員会の講師に考えていた阿倍謹也の一連の著作では、近代以降の都市生活者における自分の立ち位置を確認するための教養が唱えられていた。彼の場合、世間という概念や、大学論とセットでの考察が多い。
 その次に『野望としての教養』の浅羽通明がとても参考になった。彼も講師候補の一人だった。一橋の学長を務めた阿倍謹也とは対照的な在野の批評家で、その分主張は本のタイトルからラディカルに見えるが、教養とは自らの根拠を知るための知、といった極めて妥当なものだ。しかし、大学や読書を自己絶対化や知的ナルシシズムから解放し、一人で世界に立ち向かう道具とする。
 そして内田樹。この人については支部学会の講師と考え、メールで連絡もした。何か、自分の関心のある人は直接話を聞いてみたいんですね。彼についてはアメリカ論が面白かった。少々強引な論の進め方は気になるが、目から鱗が落ちるような新鮮な視点を提供してくれる。教養については、費用対効果という消費文化イデオロギーが崩壊させた予見する能力、生き延びるための知の重要性を指摘している。内田さんにしては常識的な気もするがでも当たっていると思う。
 さてその先の自分の教養論については、まだこれからの事だ。このあたり少し羊頭狗肉だと思う(残念!)。
2008年9月カナダのセント・キャサリンで。