言葉の力を信じていた?

 昨夜何となく『ありふれた奇跡』を見た。最近時々再放送も含めて山田太一の脚本によるドラマを見る。降り返って70年代の『男たちの旅路』(1976)や『岸辺のアルバム』(1977)を思い出す。同時代には『前略おふくろ様』(1975)の倉本聰や、『阿修羅のごとく』(1979)の向田邦子がいた。テレビ・ドラマの黄金時代を作ったすごい脚本家たちだった。
 どのドラマも俳優の細かい表情やセリフまで記憶している。『男たちの旅路』における鶴田浩二桃井かおり、水谷豊による中年と若者、男と女の絶妙な対立とアンサンブル。『前略おふくろ様』における川谷拓三と室谷日出男のからみ(ウィスキーの宣伝にも登場)。さぶちゃん(ショウケン)の親戚である海ちゃん(桃井かおり)のセリフ回しを仲間でまねた事も。
 さて『ありふれた奇跡』の主人公を演じる加瀬亮と仲間由紀江は現代の俳優では、その端正なたたずまいから山田太一の世界を演じるのにうってつけのような気がする。しかしその割ゼリフのような、相手の言葉を引き取る言い回しは、いかにも不自然に感じられた。誰かが意見を言うと皆して「そう」、「そう」、「そう」というのが懐かしくて、でも同時に奇妙に感じる。
 70年代のドラマってけっこう議論をしたり、言葉が力を持っていたのかもしれない。特に山田太一の世界では登場人物が言葉で自分の考えを明確にして、相手とのコミュニケーションをとる。それがなぜ70年代には成立して今だと不自然に思えるのか。言葉にする事の意味を過剰に信じていた時代が70年代だったのだろう。だから山田太一は今をとらえ切れずに、過去の自分の作劇術をなぞるような結果になったのだろうか。
『想い出づくり』(1981年)の田中裕子は西高の4期後輩。向陵中学〜西高ではかみさんの7期先輩にあたる。