英語の授業終了
木曜で英語リーディングの授業が終わった。この後は試験と答案返却と休講(終了のため)の予定。38年間英語のリーディング、名前は英語Aとか英語講読とかもありました、
英語を読む授業ですが、これが英文学を専門としている教員が戦後ずっと担当して、ほぼ僕らの後は英語教育の専門家に取って代わられつつあります。
英文学の研究者が大学の教養の英語を担ってきたのは、戦前からかも知れません。ただ、自分が専門でない英語講読的な授業を数十年にわたってやってきた日本の大学の英語教育の問題点とメリットもここにあるかも。
問題点は自分が専門でないという逃げの姿勢がずっとあって。でも少しは英語を読むコツとか、経験からの知恵とかも教えようとはしてきましたが、英語教育の専門とする教員とは違うでしょう。これは英語以外の外国語においてもだいたい共通している事情かもしれません。
メリットは、英語を文学の研究者の観点から解説ができる。もちろんその場合、英米文学のテキストを使うのですが。または文学のテキストを平明な解説で読み解いていく事も可能です。
しかし、これも数十年前から大学の英語のテキストから文学が追放され、時事エッセイや文化エッセイを中心として、エクササイズが付されて、テープも付いた総合教材に衣替えしました。でもこれも中途半端な気がします。読み・聞く・話す・書くの4技能を1つのテキストでする事は不可能で、現在ではこれは別々のクラスで実施しています。
いずれにしても「読む」事は、英語でもほかの言語でも学校できちんとする事が重要で、他の技能は会話学校や語学研修・留学で学べばいいと思います。聞いたり、話したりはその言語が使われる場所で学ぶのが一番です。
しかし日本で非難されている英語教育の読みの部分は、アメリカの大学での語学研修で有効である教育である事を体験して来ました。最初のうちは、南米や中東の学生が話せます。話す文化である事も大きい。しかし少し時間がたって、シャイな日本の学生も話せるようになってきた段階で、日本の学生の英語を読む力が、最初話せた学生の読解力よりもかなり優れている事が多いと思いました。これは会話力の様にすぐに身に着かない。
そんな風に日本の英語教育のかなり端っこにいて、自分の専門は英語を教える事ではないといじけていた僕も英語を読む事の意味を次第に意識してきました。ただそれ以上に積極的に読みの方法を開発して教えるまでには至りませんでしたけれど。
写真はリーディングに関係はありませんが。ボトルの形が好きなシングル・モルトと額に入れた拙画です。かみさんは額に入れるような絵ではないのにと不服そうでした。