身体感覚の延長

道具を使う様になって類人猿から人間になったとすると、人間としての本質は如何に有用な道具を有効に使用するかにある。もちろんその道具が諸刃の剣として人間を不幸にしてきたものであるという歴史をも踏まえて、とりあえずはその道具を如何に使うかについて。高校の剣道部を1年で落ちこぼれた身では、武器という道具としての竹刀が人の腕の延長として意識して使いこなす事が重要である事を身体感覚としては理解できていないが、理屈としとしては理解できる。
  同じように車を運転できない身としては、車が身体の延長として意識して使いこなす事はできないが、それができる人とそうでない人との違いは分かる。今日は円山の裏参道のお店にタクシーで行きました。女性の運転手は信号の少ない抜け道を選んだのですが、そこで自分の車が狭い道を対向車とどのようにすれ違うかを分かっていない素人との対応に苦慮しているのを目にしました。
おそらく普通の広い道での運転なら自分が運転している車が対向車をさけて道の左側の雪の塊りに乗り上げた時にどのようにずり落ちで、対向車と接触しそうになるかなど予測できなくても問題はない。でもそのような状況になった時に、自分の車の幅や後部をある種自分の身体と同様にまたは延長として意識して、相手の車とどのようにでこぼこのある道でぎりぎりの空間ですれ違う事ができるか。
 たぶんタクシーの運転手さんも自動車を自分の身体の延長として意識化しているとは思わない。でも普通に車を運転している人よりも圧倒的に多い運転時間数から様々な道路状況と対向車との関係を経験値として持っていると推測できます。で同じような経験を持っていない運転手がただ前に進もうとして、結果としてはより危険を察知する相手の譲歩を当たり前としているのが、歯がゆいと言うか不愉快というか。