短編ではないけれど

ミニマル・ミュージックの代表的な作曲家であるフィリップ・グラスが映画音楽を担当した点については1月24日に書いたけれど、その『めぐりあう時間たち』について。
1923年ヴァージニア・ウルフはクラリッサ・ダロウェイを主人公とするThe Hoursという仮のタイトルの作品を執筆していた。2年後の1925年Mrs Dalloway(『ダロウェイ夫人』)という題で発表されたこの小説は、ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』(1922)と並ぶ英語圏におけるモダニズム文学の代表的作品として評価されるようになる。そして73年後の1998年に発表されたマイケル・カニンガムのThe Hours(『めぐりあう時間たち』)は3つの時代のダロウェイ夫人またはクラリッサ・ダロウェイを巡って物語が進行していく。1923年ロンドン郊外のリッチモンドで『ダロウェイ夫人』を執筆中の作家ヴァージニア・ウルフ。ここはウインブルドンの近くです。1949年ロサンゼルスで『ダロウェイ夫人』を読む主婦のローラ・ブラウン。そして現代のニューヨーク、「ダロウェイ夫人」とあだ名される編集者クラリッサ・ヴォーン。
 このように先行作品に依拠する、メタ・フィクショナルな構成のポストモダン小説が1980年代からら90年代にかけて少なからず発表された。それは元の作品を換骨奪胎し全く新たな作品に仕上がる場合もあるし、先行作品にただ寄りかかっただけの作品もあった。しかしこのアメリカの男性作家カニンガムによる『めぐりあう時間たち』は1999年度のピューリッツアー賞とペン/フォークナー賞を受賞した作品であり、2002年映画化がなされたことからも、その評価は高いと言える。
 下敷きとなる『ダロウェイ夫人』において、時間と人間の意識を現代文学の重要なテーマと考えたウルフは物語を12時間という枠組みに限定し、その中で登場人物の意識が現在と過去を往復しながら一瞬一瞬の内に変化していく様子をとらえようとした。『めぐりあう時間たち』においても時間が重要なテーマであることはThe Hoursという原題からも明らかであるし、3人の女性の様々に生きる時間=人生が描かれる。
 狂気の兆しに怯えながら『ダロウェイ夫人』を書くウルフは、最初ダロウェイ夫人が自殺をするという結末を構想する。しかしダロウェイ夫人の分身ともいえる人物に自殺をさせることによってこの女主人公を生き延びさせるが、作家自身は1941年入水自殺を遂げることになる。ローラ・ブラウンは家族を愛しながらも、充たされない思いから自殺を願望するが果たせず、家族を捨てることで暖昧な日常にけりをつける。彼女にとって『ダロウェイ夫人』を読むことはもう一つの世界を生きることを意味し、そのことによって彼女自身の生を持続させる。ということは文学が作家と読者の人生において果たす意義がもう一つの鍵になるだろうか。同性の恋人サリーと暮らすクラリッサ・ヴォーンは、昔の恋人リチャードの病気とその死に際し、生きることの意味を見つめなおす。
 そして三つ目のキーはセクシュアリティ。元祖フェミニストとも呼ぶことのできるウルフにとっても性は重要なテーマであった。小説上ではクラリッサ・ダロウェイと女友達とのホモセクシュアルな関係が示唆され、ウルフの実人生においてもその伝記的事実からホモセクシュアルな傾向は明白であった。『めぐりあう時間たち』ではローラ・ブラウンはさりげなく、クラリッサ・ヴォーンははっきりと同様の志向を繰り返す。女性たちのセクシュアリティの問題に加えて、現代に生きる男性の性のテーマは詩人リチャードが罹っているエイズに凝縮される。カニンガムは1990年の『この世の果ての家』においてもホモセクシュアルエイズを重要なテーマに据えていた。現代では性のテーマがヘテロ・セクシュアル(異性愛)からホモセクシュアルへ、さらにはエイズの問題も抱え込んで限りなく錯綜していく。
 最後に未読の読者のために明言できないが、登場人物の隠されていた関係が結末において明らかにされ、3つの時代設定の意義がさらに明確になっていくことを付け加えておこう。そしてゲイの作家カニンガムの同性=男性への厳しい視線と、女性へのマイノリティとしての共感が強く感じられる事も。