知性と他者

2月19日(水)朝日新聞の朝刊で「反知性主義への警鐘」というコラムで、佐藤優内田樹竹内洋氏の発言を引用して、それぞれ論点は微妙に異なるが、共通するのは「自由」だとまとめている。
例によって天邪鬼な僕はコラム氏の結論に納得できず、少し考えて、「知性」や「知的な態度」をエリート主義と混同したり、ポピュリズムの使い方の誤用などについて自分なりに整理してみた。
まず佐藤氏が、昨年の麻生元首相の発言などについて、「意見の異なる他者との対話を拒絶し、自分に都合のいい物語を他者に強要する反知性主義」としているのは同感。また、1950年代のマッカーシズムを分析したアメリカの歴史学者ホーフスタッタ―の『アメリカの知性主義』を引用し、橋本大阪市長の学者は本ばかり読んで現場を知らない役立たずという発言が有権者にアピールしたのは、ポピュリズムの普及によるとする。これについては異論あり。
先ず、ポピュリズムとは大衆の支持により既存の政治体制に対抗しようとする政治姿勢。これには既存の体制がエリート官僚や知識人が支配していると言う前提がありそう。「大衆迎合」などと誤用されるのも、もともとそのような性質を含んでいるからと考えられる。
その意味で竹内氏の使うポピュリズムが誤用とは言わないけれど、それよりも長いタイム・スパンで様々な意見を考慮しながら事の是非を考える「知性」より、いますぐ役に立つ効率と言うキーワードで問題を解決しようとする社会の風潮が原因だと思う。不況脱出とか経済効果とか、領土問題とか、鬱陶しい世の中の諸問題をすぐに解決しようとすると、「知性」とか「知的な態度」は邪魔になるんでしょうね。そこから「反知性主義」や若干バイアスのかかった「ポピュリズム」が台頭してくる。でもこれって、ナチスが出てきた1930年代のドイツと似ている。それにアーレントが『全体主義の起源』を書いた1950年代のアメリカのマッカーシズムとも共通点がある。
前述のように、それぞれ力点の異なる三者の共通項として「自由」が挙げられていた。「反知性主義」が自分に都合のいい物語を他者に強要する態度を排して、それぞれ自分の物語を紡ぐ/語る権利を担保するリベラリズム。この自己と他者の双方の自由を認めるリベラリズム多元主義は、最近よく言われる共生主義とも共通する。
 理解不可能な他者を理解しようとする事をスタート地点して、社会ははじまる。家族・学校・会社・地域・国家における様々な意見や経歴を持つ他者を認めるのが、知性であると。