英文学史の問題

 先週書いたものを支部HP用に改訂しましたので貼り付けてみます。
 藤女子大学文学部英語文化学科主催の公開講演会が同大学北16条キャンパスにおいて開催された。講師は集中講義に見えていた東京大学大学院人文社会系研究科・文学部教授の高橋和久氏(元日本英文学会会長)だった。この公開講演は集中講義を聴講した学生への最終講義であると同時に、一般の聴衆に対しての講演という二つの目的をもつものであった。
「英文学史の問題」という演題自体が講師の高橋氏の「英文学史」そのものへの問題意識を反映していた。先ず最初にJane AustinとCharles Dickensからの引用を用いて”rough spirits”の持ち主ならともかく”sensible man”は文学史を語ろうとはしないだろうという話から始まった。どうも学会の長老的な研究者ともなると文学史を講ずる機会が多くなるらしいが、文学史そのものに問題があるとする。
例えば「英文学史」の「英」が意味する国や地域として、イギリスだけでなくスコットランドアイルランドがあるので、その辺りも視野にいれないとちゃんとした「英」は語れない。この高橋氏のご意見に追加させてもらうなら、アメリカ・カナダ・オーストリアその他の英語圏の文学も「英」の範疇にはいってくるだろう。
 次にルグイとカザミアンによる古典的な英文学史の目次を例にとって、「ノルマンの征服からチョーサーまで」などのようにその時代区分が文学とはあまり関係のない歴史的観点からの区切りをそのまま使用している事を指摘した。文学テクストは歴史的・社会的コンクストにおいて生まれて解釈されるが、あまりにも文学的なコンテクストを考慮しない文学史が多いと批判する。
 さらに”Lake Poets”のようにそれほど共通の文学性を持たない詩人たちが同じ地方に住んでいたというだけで「湖水派詩人」のように一括りにされる事への疑義。また特定のイデオロギーのもとに作品的評価とは別個の視点から作品を取り扱う事への疑問などを指摘された。
と言う事は客観的な文学史を無理して目指さず、私的で個人的な文学史と断って自分の考える文学史(のようなもの)を語るしかないんですね。酒席においてと同様の洒脱な語り口で辛口の(メタ)文学史を教えて頂いた。
 因みに10月3日函館(教育大)で開催される英文学会北海道支部大会での講演会においては、高橋氏の同僚である平石貴樹氏が「米文学史」について語られる。この偶然は学会で「文学史」についての議論が始まるきっかけなのかも知れない。