「文脈」がない

マスコミで失言として取り上げられる人はたいてい、発言の一部を文脈と違う意味で取り出して論う(あげつらう)とマスコミを非難する。橋本大阪市長の「慰安婦」発言も同様のマスコミ非難をしていたが、彼の場合は失言とされる発言の前後を読んでも、戦場での興奮・狂気を鎮めるためには慰安婦が必要だったと言っている。つまりその取り上げられた一部は前後関係を無視して取り出したものではなく、発言の趣旨自体がそうだったと判断せざるを得ない。
しかし今回の麻生副首相の失言について、発言撤回のコメントにおいて、ナチス政権下のワイマール憲法に係る経緯を悪しき例として挙げたので、例としては適切でなかったかも知れないけれど、意図は憲法改正について落ち着いて議論することが極めて重要であると本人は言っている。
 確かに元の発言の要旨(講演全体ではないけれど)を読んでも、改憲の議論は冷静にしようと言っている。しかし件の部分はワイマール憲法という良い憲法の元でもヒトラーのような人物が出現してくると述べ、また改憲の議論は冷静にと述べつつも、その良いはずのワイマール憲法がいつの間にか変わっていた手口を学んではどうか、とも言っている。そして民主主義を否定しないけれど、喧噪のなかで決めてほしくないと発言を締めくくる。
 これはあまり文脈を追えない意見ではないだろうか。文脈とはそれなりの論旨がないと成立しない。それなりの見解があって、それを例証する事例を挙げ、そしてまとめる。短い文や発言でもそれくらいは必要だと思う。
論旨の一貫しない、文脈を追えない発言とは、様々な憶測を呼び込む危険な装置になってしまう。政治家がそれをやってはいけないのだが、この人はまた懲りずに同じ愚行を繰り返すんですね。しかしそのような不完全なテクストでも解読は可能だ。例えば繰り返されている部分は本人の言いたい事なのだと思う。つまり麻生氏は改憲の議論は喧噪のなかでやってほしくないと繰り返し、それを発言撤回のコメントでも強調している。その背後には自分たちと反対の立場である護憲派の議論をうるさいとする本音が隠されていると解読する。民主主義を否定しないけれどと言っているのも同様である。様々な意見を持つ人たちが議論をして決定するのが民主主義だとするならば、複数の異なる意見の調整である議論は必須であるけれど、氏は自分たちの意見に反対する議論を喧噪として退けたいと考えている。その事は「いつも間にか変わったという手口を学んではどうか」という発言に現れているようにも思える。
でも少しでもドイツやワイマール憲法下の共和政について調べてみると決して「いつの間にか変わった」のではなく、大恐慌による社会不安や戦勝国が押し付けたベルサイユ条約への反発、そして政党の未熟さと民主主義への失望が、ワイマール共和政の崩壊とナチスの台頭の原因として挙げられる。しかもワイマール憲法自体は1949年まで変えられなかったと言うから、憲法自体が死文化するという異常事態だったようだ。それを知ってもかの政治家はその「手口」を真似たいと考えるのだろうか。