試錬の意味

参考文献を返しに来たゼミ生と雑談をしていて、友達が悩んでいて「人って何のために生まれてきたんだと思う?こんな事を考えるのって病んでいるのかな?」と質問されたと言っていた。そういう事を考えるのはごく普通で決して病んでいる(あまりいい言葉ではないけど)のではないよと答えました。今の学生や若者って人間関係において深刻さを極度に避ける。大きい声で楽しい話題をしようと心がけていて、一人になると疲れる。若者が話す大声にそばにいる年より(僕)も疲れます。
さて「人は何のために生きるのか」という古典的な命題については、先日送られてきた『S先生のこと』でも『ヨブ記』を通して重要なテーマだったので考えていました。僕は特定の宗教を信仰している訳ではないので、神が篤信の者(ここではヨブ)に試練を与えて、その試練に対してヨブが何故このような事を神がするのかという疑問に対して神が答えない事に疑問を持っていました。
僕はこの沈黙にどのような意味があるのか分からない。そしてその後に神は降臨してこの世界と人間を作った絶対者としての神と人間の違いを説き、ヨブを叱咤する。でも試練を経ての信仰の回復または強化というのだとしても、このようなためにする試練は何なんだろうか。
信心深い者だからこそこのような試練を与えられ、信心深い者だからこそ神への疑問と絶望を乗り越え、より深く神を信ずるようになるというのだろうか。しかしこのように与え、そして奪う神という絶対者とは何者なのだろうか、と不信心な僕は思いますね。正に「機械仕掛け神」のように高みから降りて来て、「神の考えを疑ってはならない」と諭して天に戻る。財産も妻子も健康も失ったヨブは、その失意の中で神を疑ってはいけないとある種の思考停止をする事で安心立命に至る。
そして神は再びヨブに以前にも増しての財産と新しい家族と長寿を与えた、めでたしとなるが、これに異議を唱えたのが、アーチボルド・マクリーシュの『J.B.』。S先生はこの戯曲をテキストにしたようです。アメリカの詩人マクリーシュはこの作品で1959年のトニー賞(舞台の賞)とピューリッツァー賞を受けたらしい。ここではヨブを下敷きにしたJ.B.が試練を経て神に許され前にもましての幸せを与えられるとしても、亡くした子供の事をそう簡単に忘れられるのか、去って行った妻はどうなるのか、という問題がテーマとなる。
 もう一つ『ヨブ記』の神がしっかりしなさいとヨブを叱咤する前の「沈黙」について、遠藤周作の『沈黙』を連想していた。そこでは棄教をしない決意のロドリゴが、そのためにすでに棄教をしている信者が苦しめられているのを知って揺らぐところである。ついに踏み絵に足を置こうとして逡巡するロドリゴにイエスが「踏むがよい。お前のその足の痛みを、私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生まれ、十字架を背負ったのだから」と語りかける。また転んで(キリスト教を棄てて)苦しむロドリゴを、許しを求めて訪ねるキチジローを通してイエスは再びロドリゴに語りかける。キチジローはロドリゴを密告した元信者で再三許しを求めてきた。イエスはこう言う。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」
 神の沈黙の意味を、旧約と新約という違うテクストで解釈しても問題かも知れませんが、旧約の絶対者として人間に君臨する神と、新約のイエスのように人と共に苦しむ神とずいぶんと違うんだなと思いました。確かにイエスって神になった人、というか神と人との間の媒介というか。僕が旧約の神に対して持つような疑問を解消する役割をイエスは持っているのでしょうか。前に触れたザ・バンドの「ザ・ウエイト」のように他者の重荷=苦しみを背負う人としてのイエスの事を語っていて、それが解釈上は万人に通じる。つまり神としてイエスと、人でもあるイエス
 旧約聖書って物語としては面白いけれど、現代の視点からすると矛盾と言うか、突っ込みどころは結構ありそうだ。けれど信仰と神の話になって「人は何のために生まれてきたのか」という命題から離れてしまった。