黒人の物語を語る資格

 土曜日の研究会はWilliam StyronのThe Confession of Nat Turnerだった。ナット・ターナーという黒人奴隷が1831年ヴァージニア州で起こした反乱を扱ったこの作品は発表された当時からずいぶんと論争を引き起こし、今に至るまで続いているらしい。
 黒人の作家・批評家・文化人にとっては、白人の作家が黒人の物語を取り上げ、黒人のいわばヒーローが優柔不断だったり、白人女性への性的な愛情を描く事が不愉快だったらしい。
 しかし基本的には作家は何をどんな風に描いてもよく、問題になるのは芸術的成果だけに責任を負うと考える。黒人の物語を黒人が描くという事には、映画においても問題になり、『カラー・パープル』や『アミスタッド』を監督したスピルバーグユダヤ人監督)には黒人サイドから批判があった。
 しかし黒人監督としてのスパイク・リーが『マルコムX』で黒人のヒーローを描くときには、プロパガンダ的になってしまう。マルコムXの人間的(弱い部分も含めて)全体像はどうしても希薄になる。若い時の犯罪者時代の描写は活気があり、ユーモラスで面白いが。
作品に話を戻すと、スタイロンの『告白』は当時の白人弁護士グレイの「告示」を元にしている。これも「ナット・ターナーの告白」といい、グレイの意図は異例の黒人反乱の起きた南部を沈静化させるために、ナットを単に狂信的な反乱指導者とし、ローカルな事件に過ぎない事を南部社会と自分が納得する事だった。小説冒頭でもグレイはナットから自分の理解できる明白な反乱の理由を引き出そうとして、ナットの曖昧な反応にいらいらいしている。このようにスタイロンのナットは単純な狂信者ではなく、反乱を指導しつつも自分が暴力を行使する事を避けようとしたり、自分の心の中を推し量りかねてもいるような普通の、もしくは普通よりも複雑な人間の内面を持つ存在であった。
 画像はグレイの「告白」。