物語が物語を生み出す 別の例

 このブログは自分の研究のメモ的な意味も持っているので、標題の別の例について記憶しているものを参考のために挙げておこうと思います。
 『わたしはティチューバ――セイラムの黒人魔女』にも登場するへスターは、"Hester"という単独の主人公としても再登場します。作者はChristopher Bigsbyというイギリスの演劇研究者(アーサー・ミラーの専門家らしいです)で、『緋文字』以前のへスターの物語です。
 もう一つホーソーン絡みでは、アルゼンチンの作家ベルティの『ウェイクフィールドの妻』。ホーソーンの短編『ウェイクフィールド』では家を出て20年間隣の通りに住み続けその後家に戻って妻と暮らすウェイクフィールドの物語を、妻の側から語り直す。
 この短編自体がある種の謎に満ちていて、19世紀の都市勃興の時代のディスコミュニケーションを象徴するとすれば、すぐに同時代のメルヴィルの「バートルビー」、さらには20世紀のカフカボルヘスの迷宮も連想せられる。
 また2003年ノーベル文学賞受賞の南アフリカ出身の白人男性作家クッツェーによる"Foe"(『敵あるいはフォー』はダニエル・デフォー作『ロビンソン・クルーソー』の大胆な書き換えだ。でもこの作品は簡単に説明できないのでこの件は後日(後日はないかもしれないけれど)。