Writers in Hollywood

 シュルバーグがハリウッドで一緒に仕事したフィッツジェラルドをモデルに『夢破られて』を書いた事は前項で触れた。ハリウッドで失敗したフィッツジェラルドというイメージはシュルバーグによるところが大きい、とするのがトム・ダーディスの『ときにはハリウッドの陽を浴びて』(サンリオ、1982年)。ハリウッドで脚本を書いた作家たちを描いた作品で、フィッツジェラルのほか、フォークナー、ハックスレー、ジェームズ・エイジー
 『何がサミイを〜」でもサミーが週給2,500ドルを得るようになった事がかかれていたけれど、フィッツジェラルドが1,000ドル、ウエストが300ドルだったらしい。しかしサミーの2,500ドルにかなわないとしてもフィッツジェラルドの1,000ドルは3大撮影所の228人の脚本家の週給の中では上位30名なのです。
 これを年収に直すと1,500万円以上になるけれど、東部での借金返済、ゼルダの入院費用、スコッティの学費などを支払うと裕福とは言えない。しかも給与生活者とは違い、翌週とは言わないが翌月にもくびになる可能性だってある。作家としての才能、脚本家としての技術と経験、ハリウッドの華やかさと過酷さ、いろんな理由による不安が彼をアルコールに向かわせたのだろうか。
 1939年24歳のシュルバーグが『冬のカーニバル』のロケハンで43歳のフィッツジェラルドと時に一緒に飲み、時に泥酔した先輩のお守りをしたようだ。最後には昏睡状態になり、恋人のシーラ・グレアムによって入院させられた。書斎に閉じこもった言われるフォークナーよりもそれなりに社交生活もあったようだけれど。20代後半で最高傑作を書いた、44歳で亡くなる作家の最後の日々が、虚飾にみちたハリウッドだっただけに、そのコントラストが際立つのだろうか。
 共産党員だったシュルバーグは非米活動委員会に召喚される。『波止場』の脚本はシュルバーグ。