中途半端な読書

 年末から集中力(あるとして)が散漫できちんと読み終えて感想文を書く事ができない本が増えた。
 待っていた『ブラッド・メリディアン』(2009年12月、早川)も面白いのだが重たくて。原書と並行しているせいもあるのだろうか。
 『時間の比較社会学』(真木悠介、1981、岩波)も、70歳前(あと10年くらい?)にまとめられればいいなと考えている時間論の一環。たぶん多田智満子の詩について考えている時に参考文献として読み始めたのだと思う。
 ジュディス・フェリッターの『抵抗する読者』(1994年、ユニテ)はアメリカ文学におけるミソジニー(女性嫌い、女性排除)についての本で、内田樹さんの映画論『映画の構造分析』に参考文献として載っていたものを取り寄せて読んでみた。このテーマは西部劇などに応用できそう。
 そして3月の支部ワークショップで取り上げるホーソーンの「ナイアガラ行き」の参考文献としての『楽園と機械文明』(レオ・マークス、1972年、研究社)は、「北米文化論」でのテーマ「都市と郊外」でも参考文献として考えているので、読み直すいい機会と考えて。
 ホーソーン絡みで「ウェイクフィールドウェイクフィールドの妻』(2004年、新潮社)はミソジニーについての作品でもあるという観点から。それと都市と孤独というテーマにも関わるだろうか。
 最後に年末年始にミステリーの再読をしていたが、きちんと読んでいなかった『フリッカー、あるいは映画の魔』(セオドア・ローザック、1998年、文藝春秋社)。これは同年の「このミステリーがすごい 第1位」になった作品で映画をテーマとしているが、かなりぺダンチックな文章なので敬遠していた。でも読み直してみると面白い。横になって読むにはちょっと重たいが(本の重量が)。
 昨年研究会の司会で苦労して読んだエリクソンのOur Ecstatic Daysの翻訳が出たが、読む意欲がないのは何故だろうか。