フォークナー〜サリンジャー

 昨日は深夜暖房が止まり慌てました。朝になって連絡をして午後きてもらい、30分ほどボイラーの掃除をして治りました。
 そしたら翌日今日は雪で真っ白。暖房がなおってよかった。雪かき3回。いい運動に。
 研究会のテキストの勉強と、講義の準備と、論文の原稿と思ったより真面目な日々。
 ヘミングウェイの研究書を読んでいるとフォークナーとの比較を平石先生が書いていました。
 実は講義の準備の方で「アメリカ文学と北海道の親和性」についてのお説を引用しています。
 ヘミングウェイとフォークナーをつなぐタームは「個人主義」、ブログの前項で気になって引用しました。
 「出自に規定された自己」を描くフォークナーと、「自由だけれど何もない自己」を描くヘミングウェイという風にかなり言い換えてしまいます。
 『持つと持たぬと』のハリー・モーガンは、出自は不明だけれど、妻と二人の娘については繰り返しその責任について語っている。実際に父となったヘミングウェイの「ニック」物における父や息子への希薄な愛情表現とは異なる作品を書いたような。
 講義のほうは「孤児としてのアメリカ」から「とりかえばや物語」、そして最後に来年生誕100年を迎えるサリンジャーについて紹介します。「出自に規定された自己」を嫌い、「自由だけれど何もない自己」を勘違いして、孤独と放浪を気取るホールデンとすると少し不公平かな。
 ちなみに"I'm Crazy"という『ライ麦畑』の原型となる短編のタイトルは「僕は気違いだ」よりは「僕はイラッとしているんだ」の方がいいかな。人とちょっと「違う」"crazy"もよくある若者の態度ですし。
 つまりホールデンは普遍的な若者の感受性の強さと、「大人ってわかってくれない」といういらだちと、孤独の切なさとが相まって読まれ続けるキャラクターになっているんでしょうね。
 写真はシグネット版の帽子をかぶっているホールデン

『持つと持たぬと』の準備

 ヘミングウェイの発表を聞くための予習。それが自分の講義にも関連して面白いです。
 『持つと持たぬと』は1934年の作品で、舞台はフロリダのキー・ウエスト。自分の船を持つハリー・モーガンは釣りをする金持ちのために2週間も船を出しますが、その料金を踏み倒された事が転落のきっかけになる。
 冒頭アクション映画のような銃撃戦が。実は酒と銃撃シーンが多い。描写も映画の影響を受けているような気が。
 金に困って密輸に手を染め、撃たれて片腕と船も失ってしまいます。
 押収された自分の船を盗んで取り戻したけれど、銀行強盗をした革命家のグループに船ごと拉致され乗り組み員を殺されたハリーは、4人を銃で殺して、自分も撃たれてしまい。
 コンクという巻貝を意味する言葉が地元の貧乏人(持たざる者)として使われ、その代表としてのハリーは同時に自分の船と家族への責任感を「持つ者」でもあります。
 ですから「持つと持たぬと」は単純に金持ち/資本家対貧乏人/労働者ではなく、物質的なものと精神的なもの対立、そして持つ者が持たざる者に転落する様子や、持っているように見える者が実は持たざる者である事が明らかになるなど、複雑という錯綜している。
 最後にハリーが「個人では何もできない」というのが、非政治的なヘミングウエーが宗旨替えをしたようにも受け取られているようです。何か物語の流れと会わないような気がします。
 参考文献として宮本陽一郎さんの「ヘミングウェイの南西共和国」(『ヘミングウェイの文学』所収)が面白く参考になりました。

Little Requiem

今朝もとの職場の先輩から別な先輩の訃報がメールで届きました。
 昨年のテニスの試合以来会っていないので体調が悪いのかなと思っていました。
 そのメールの直後に喪中欠礼が届いていて11月に77歳で亡くなっている事が分かりました。
 さっそく大学のテニス同好会の事務局に連絡しました。自宅に電話をして奥様に事情を聞こうと思ったのですが、電話がつながりません。
 ともかく香典を書留で送ろうと思い、郵便局で宛名を書いているとタイトルの曲(イタリアのピアニスト、ロベルト・オルサーの『ムーン・アンド・サンド』の収録曲)がイヤフォンから流れてきて、その符号にびっくり。
 28歳で大学に赴任した時の教養部のドイツ語の先生で可愛がってもらいました。テニスが好きで、人とおしゃべりするのが大好きな先生でした。酒を飲むと少し・・・ニセコのテニス合宿での武勇伝もあります。
 だいぶ昔にすすきので飲んでいて、北広島の自宅に拉致され?泊めてもらいました。翌朝の朝食の焼き鮭にミョウガが添えられていてずいぶんと料理好きな奥様だなと印象に残っています。
 数年前にデパートでご夫妻にお会いしました。お元気そうだったのに。冥福をお祈りします。

再開

 今日は北海学園の授業なので、後から近所の幼馴染のお店「MITUYA-CAFE]へ。
 店主夫妻と話していると、同級生がこれからキタ・エールでの松任谷ユミのコンサートに行くので寄るという。
 数年ぶりなので待って話をしました。川北(白石区)の傾いた家の改築の話に終始しました。買ったばかりのピアノは無事だったとか。
 僕の方は、1年ぶりに水彩画を再開しようかと。横にあるのは最近、食後に飲むブランデーです。シングル・モルト(・ウイスキー)の2倍くらいするのですが、やはり美味しい。レミ・マルタンのXOのボルドリーというのと、エクセレンスというのを飲み比べていますが、安いエクセレンスの方が飲みやすいような気がします。

英語で書く

 10月のシンポジウムの要旨をアメリカ文学会本部機関誌の英文号に掲載するために書いています。
 だいぶ前にも書いたけれど、日本語をそのまま英語に直せない部分もあります。
 それとシンポ前の要旨に対して、シンポ後の要旨はその時のパネリストのレジュメの内容に即する必要があります。
 ちょっとずつ書いては、後回しにしていましたが、月末つまり来週末の締め切りで、各講師の人たちにも確認してもらう時間もあるので、ようやく最後まで書いて講師の人たちにメールで原案を添付しました。
 退職後は朝食は自分で作っています。パスタやインスタント・ラーメンかサンドイッチですが、できるだけ野菜を取るべく努力をしています。で、ねぎを切るのに台所用品ではなく、アウトドアのナイフを購入しました。Opinel(オピネル)というフランスの有名なメーカーのようです。と言っても値段は高くありません。最初No.8(刃渡り8センチ)のを買ったのですが、ニンニクをスライスすのには大きすぎるのでNo.6(刃渡り7センチ)を買い、キャベツを切るのにNo.10(刃渡り10センチ)を買っているうちに計5本になりました。

 

To Have and Have Notの勉強

 今年最後の研究会が12月8日にあります。ちょうど親戚の法要が昼前にありますが、昼食時はビールを飲まないように我慢します。
 作品はヘミングウェイの1937年の4作目の長編To Have and Have Not。翻訳は三笠書房版、佐伯彰一訳『持つと持たざると』です。原作はキンドル版で買いましたが、やはり紙がいいのでペーパーで買い直す。11×18センチで180頁の長編にしては短い。長めの中編か。
 問題は翻訳の古本を読むと、のどに悪い事です。あきらめようと思いましたが、マスクをしてよめば大丈夫でした。
 例によって映画化の『脱出』(1944年)を思い出しつつ。監督のハワード・ホークスはハンティングや釣りの趣味はヘミングウェイと共通していますが、作家としてはフォークナーと親しく、『脱出』と『三つ数えろ』も一緒に作業をしています。
 さて映画の方は主演がボガートなので『カサブランカ』(1942年)』と意識した改変になっています。正義感はあるがちょっとすね者の主人公が亡命する活動家を助けるメロ・ドラマ。
 しかし原作はもっと社会的なテーマを少し複雑な構成と語りの方法で描いています。主人公のハリー・モーガンも死んでしまいます。そして発表ではchonch(コンク)という植民地の地元民が「持たざる者」の代表として描かれる。
 1930年代の小説では普通なのですが、黒人や中国人への差別語も普通にというか頻繁に出て来ます。ルーズベルト大統領の時代のフロリダのキーウエストが舞台で、バティスト政権のキューバハバナとの密輸(ものだけでなく人も)が大きな問題として描かれます。

喘息かな?

 どうも咳が取れなくて、他の風邪の症状がないので、喘息だと思いました。
 授業や研究会のために書庫で古本にふれる機会が多いんです。2年前に30年ぶりに喘息が再発した時もそうでした。
 この2〜3月に研究室から自宅に本を移した時は、必ずまめにマスクをしていました。最近油断をしたようです。またマスクを買おうっと。
 11日日曜日はかみさんの誕生日。円山の寿司の名店は予約できず、お蕎麦屋さんへ。まあまあでした。というか、店主の態度があまりよくない・・・
 食後のコーヒーは宮越で。カーリー・サイモンキャロル・キングなど70年代のシンガー・ソングライターの曲がかかるので、レジでキャロル・キングとツアーをしているジェームズ・テーラーってカーリー・サイモンと結婚していたんだよというようなおじさん(おじいさん?)の雑学を披露しました。