茶碗をうたう

山崎方代の茶碗の3句を取り上げて考えてみました。
茶碗の底に梅干の種二つ竝をるあゝこれが愛というものなのだ 
こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり
寂しくてひとり笑えば卓袱台の上の茶碗が笑い出したり
57577の前半の575「茶碗の底に梅干の種二つ竝をる」で事象を観察、後半77「あゝこれが愛というものなのだ」でそれに感情移入をするように思えます。発句575に対する呼応というか付合(つけあい)なんでしょう。でも「こんなにも湯呑茶碗はあたたかく」では575の5の「あたたかく」というフレーズが、「しどろもどろに吾はおるなり」を引き出すつなぎになっている。
 3句目は前半で寂しさを笑いで誤魔化すが、(またも)卓袱台の茶碗に感情を転移するようなレトリックです。悲しさや涙と笑いというコントラストは、「死ぬ程のかなしいこともほがらかに二日一夜で忘れてしまう」にも見られる。寂しさや悲しみをそれだけで放り出してしまわないで、それさえも笑ってしまう事で相対化する。でもそれって、人生には笑いも涙もあるんだよと言う、下世話な人生論になってしまう危険性もあるけれども。
 『無用の達人』を読んで、山崎方代の人生に時々付き合うと面白いだろうなと思いました。でもその人生自体はけっこう大変で、深く接した人も大変だったろうなと。思いつくままどんどん歌ができるのではなく、当然のように苦吟する。短歌の前半と後半をつなぎ合わせたり、組み合わせたりもする。酔っての(いつも酔っているようですが)与太話は面白いが、素面の時は怒りっぽくてつまらないと身近な人たちのコメントもある。歌っている内容も虚実がないまぜになっていて、それは当然だと思いますね。事実だけ提示してつまらないよりも、虚と実を組み合わせてそれが何らかの真実を表現するのがアートだから。山崎方代さんは読んで面白い、本人にとっては大変な人生を送り、なかなか素敵な口語短歌を世に送り出したのだから、もって瞑すべし(と言っていいかな?)。