「金持ち小説」としての『アブサロム、アブサロム!』

 畏友Uさんの論文への拙い感想です。
 論文タイトルの「金持ち小説」と「ビジネス・ロマンス」の連想もあるせいか、この『アブサロム、アブサロム!』は、成り上がり者としてのサトペン=ギャッツビーという構図が頭に浮かびます。フォークナー研究の流れ自体について知識がないけれど、サトペンによる王朝建設の「計画」と挫折という指摘が面白いです。
 語りの方法についても、クェンティンがサトペンの義理の妹や友人だった自分の祖父の印象を父から聞いた事を、自分の友人シュリーヴに語るように、真実に至るための複雑で迂回的な方法が面白い。たぶんポリフォニー的な語りの方法でしか、真実を語り得ないという事だろうか。
 もともとサトペンの「計画」が、貧しい少年を受け入れる農園を作る事だとしても、そのために金持ちになるという事が目的になってしまい、最初の理想が見失われてしまったのだろうか。また刻苦勉励の目的である金持ちとは何か。そもそも労働とは何か。そこにもギャッツビー的な主題があるような気がする。
 また金持ちも伝統的土地所有の金持階級対都市の成金的富裕層の対比も興味深いです。またプロテスタンティズムの影響から労働を重要視するけれど、金持ちになった後はハンモックで過ごすなら、労働は手段でしかないという矛盾もあるんですね。
講談社文庫の訳者高橋正雄さんによる解説では、クェンティンの南部を否定したけれど否定できないという矛盾を作者フォークナーも共有しているとあるけれど、上西さんの結論はそれをもっと説得的に説明しているような気がします。つまり作品(作者)の意図は、金持ち批判ではなく、近代批判となっていると。
北のカナダからの資本主義のチャンピョン、アメリカに憧れるシュリーヴと、南部の挫折を抱いたクェンティンが出会うハーヴァードという空間が近代的視点を持つための装置となるのだと理解しました。南部だけでなく、北部も含めてアメリカの計画の挫折という近代的視点を作者は持っていたというのは、かなり大きな指摘だと思います。