今度は結末

 今朝の朝日の朝刊に掲載されていた斎藤美奈子文芸時評は「結末の問題」というタイミング(僕にとっての)いいものだった。エンタメ系と純文学のちがいは前者がはっきりとした落ちをもち、後者がそうではないという分かりやすいものだった。いいかえれば起承転結が前者で、起承転転、起承承転などが後者。
 その娯楽文学系の例として森見富美彦の『恋文の技術』を挙げている。このスタイルも前項で触れたように近代小説の元祖なのだ。たしかにこの書簡という一人称の語りは登場人物の思考を描写するには便利な形式だ。読者も登場人物から直接話しかけられているような錯覚に陥り感情移入をしやすいし。
 で、エンディングの話に戻るが、物語はどのような終わりにしろ、終わりを迎えるのだけれども、きっぱりと明確な終わりを決めて読者をほっとさせるが娯楽小説だと思う。読んだ後に小説の世界を引きずりたくない。少なくとも爽やかな読後感が望ましい。しかし純文学(というジャンル分けがまだ存在するとして)の方は、終わりのない現実の世界をリアルに描こうとすると、起承転結にはならないだろう。煮え切らない終わりがリアルなのだから。または予測のつかない未来に向かって物語が開かれていくような結末。
 例えばC・マッカーシーの『ロード』では父親を亡くした少年は善良な人々の世界に迎えられて、一先ずほっとするが、『血と暴力の国』(映画『ノー・カントリー』の原作)では、生き残った保安官のベルが父親の事を夢見るというように、物語のスムースな終わりをずらすようなエンディング(もちろん、小説全体としては納得のいく)になっている。
 長編小説と短編小説の結末の違いも興味深いがそれはそれでまた別の機会に(別の機会がない場合も多いけれど)。