自己流:小説の書き出し

 デヴィッド・ロッジに刺激を受けて、様々な小説の書き出しについて調べて(とまではいないが)みた。
 近代小説の祖とも言われているセルンバテスの『ドン・キホーテ』は、「閑暇な読者よ、予がこの書物を、己が知能の子として…」とはじまる。作家が架空の読者に語りかけて、物語が始まる形式。外枠物語を置くというか、額縁をほどこすといか。『ドン・キホーテ』は中世のロマンスの主役である騎士道物語のパロディとして書かれ、ロマンスから近代のノベルへの橋渡し役をした。
 英文学では近代小説は近代市民が読者層を形成したところから始まるといわれ、サミュエル・リチャードソンの書簡体小説『パミラ』から始まる。リチャードソンは代署屋や印刷業をしていたので、自分の良く知る手紙のやり取りをそのスタイルとして選んだ。「ご両親様、たいそう困った事をお知らせしなければなりません」。この小説はパミラという若い女性が女中奉公先で若主人に言い寄られ、それをしのぎつつ結局は結婚に持って行く、そのいきさつを実家との手紙のやり取りで表したものだ。どうもこの時代の小説は処世訓、一種の行動規範としての役割もあったようだ。
 さてこんな風にあまり文学的でなく始まった近代小説はリチャード・スターンの『トリストラム・シャンディ』という物語が始まらない、まるでポストモダン小説を先取りしたような作品も登場する。明治時代にすでに漱石が紹介しているのを知ると、如何に漱石が稀代の英語読み・小説読みか分かる。伊藤整の『伊藤整氏の生活と意見』もタイトルはここからきている。
 でも小説という文学では比較的後発のジャンルは、理論的には何でもありで、その辺りを筒井康隆などは戦略的に利用して抱腹絶倒の、しかし様々な趣向を凝らした小説を書き続けた天才だと思う。最近天才という言葉を安易に使うが、筒井は戦後日本文学の真の天才の一人だ。
 ピカソの描いたドン・キホーテ