『越境』再説
三部作の中では苦手だったが『越境』を再読すると、三部作の中だけでなく、マッカーシーの最高作なのではないかと思うようになった。
ビリー・パーハムが捕まえて、国境を越えてメキシコまで連れ戻す狼は野生・自然・イノセンスのメタファーか。
ストーリーのみ追っていくせっかちな普段の読み方とは違い、ゆっくりと描写も楽しみながら読み進める。
単なる寓意小説の様にシンボルが物語の表面に浮き出るのではなく、物語の中に深く埋め込まれていて、静かに連動していく。
自然の中に返そうとした狼を奪われて見世物にされてしまい、誇りもなくしてずたずたになった狼を、ビリーは一思いにライフルで殺してしまう。
ここまでが第一部か。また国境を越えて家に戻ったビリーが見たのは両親が殺されて、弟のボイドが保護されている惨状だった。冒頭で水と食べ物を与えたインディアンが犯人らしい事が示唆される。
盗まれた馬を取り戻しに、ビリーはボイドを連れてメキシコに戻る。
この「盗まれた馬」というのは『すべての美しい馬』の変奏である。一方盗まれた宝探しは、日本の時代劇映画から現代の人気ファンタジーまでに共通する物語の定型でもある。
この『越境』を読んでいて他の2作にはないのが、恋愛だと気付く。『すべての美しい馬』のアルハンドラはまぁいいだろう。でも『平原の町』のマグダレーナは唐突なグレイディの猪突猛進が微笑ましくも、物語の展開上少し説得力に欠ける。
まこの『越境』でも最後の方で、ボイドの少女との失踪がグレイディの情熱事件を連想させるか。
いずれにしても物語の大半は、ビリーとボイドの苛烈な馬探しで、この苛酷な道行は一種のバディー・ストーリーになっている。『平原の町』に共通するビリーの役割は年下の者の面倒を見る、または見守る事。
盗まれた馬を探す過程で、書類や交渉が意味をなさないメキシコの世界、少年たちを翻弄する狡猾な大人と、手を貸し無償の行為を示す人たちと出会う。
また物語内物語として「盲目の元革命軍兵士」など、一見主筋と関係のなさそうなでもギリシャ悲劇を思わせる、神学的・思索的・寓意的な物語がポスト・モダン小説のようにさしはさまれる。
神学と言えば、この『越境』にも「平原の町」という表現が出てきて、神に滅ぼされたソドムを連想させ、マッカーシーって黙示録的な世界を描き続けているんだなと再確認させられる。
少女と出奔してメキシコで死に英雄の様に見なされているボイドの骸をビリーは墓から掘り出して故郷に連れ戻そうとする。
このように連れ出しては連れ戻そうとするビリーの行為は何を意味するのか、その主たる場である国境の意味は、その越境の意味は何か。ある程度の意味づけはできるか、その先の解釈や分析は、もう少し時間をかけてしようと思う。