クリスマス・イブ

サンタを含む人形は、赤煉瓦テラスの1階にある文房具店Futura、未来を意味する「フーチュラ」でだいぶ前に買いました。真ん中の赤い帽子の雪だるまは前にも登場した事があります。

 手前のクッキーの詰め合わせは、かみさんが実家の大掃除の手伝いをしたご褒美にもらってきた焼き菓子専門店「ビュスキュイテリエ・ブルトンヌ」のものです。
 僕は例によって「ビュスキュイテリエ・ブルトンヌ」という店名にこだわりました。「ビュスキュイテリエ」の方は以前「ビスケット」にこだわって何回か書きました。日本ではクッキーのようなお菓子にのみ使いますが、アメリカの開拓時代を扱った小説や映画ではスコーンのようなパンの意味でソーセージなどと一緒に食べます。
 今回は「ブルトンヌ」の方に関心が向きました。「ブルトンヌ」はフランス北西部ブルターニュ地方の形容詞形でしょうか。牧畜が盛んで良質なバターと塩を使った焼き菓子で有名なようです。
さてブルターニュ地方は「ブルトン」から来ていますので、「イギリス」の「ブリテン」と同じで、アイルランドスコットランドウエールズと並ぶケルト系文化圏の一つです。
この辺りのブリテン島と大陸の歴史についてはまた別の機会に。

賀状と中華屋さん

 金曜日は遅めの(本当に遅めの)賀状の注文。
 毎年大丸セントラル藤井で100枚ちょっと注文するのですが、クリスマス近くになってしまい、受け付けるデザインが限定されてしまいます。それでも何とか見つけて注文。
 その後予約をしていた「はるのそら」へ。以前は南1条西6丁目の東急ハンズの隣のビルの1階にありましたが、大通りの北都ビルの地下に移りました。
 いつ電話しても忙しくて出ないか、出ても満員である事が多い。やっと予約をして新しいお店に入りました。前よりも結構広くて隣の席とスペースがあって落ち着けます。女性店員の接客も悪くない。
 春巻きでビール。後はかに玉と油林鶏で紹興酒、海鮮焼きそばで締めました。
 昨日は円山の実家の大掃除を手伝いに行ったかみさんと北3条西24丁目の「味平」で待ち合わせ。前から行こうと思っていた定食屋(食堂?)でしたが、営業時間が不定期というか土日しかやっていなかったり。やっと入れましたが、洋食がメインのようで、牡蠣フライ定食とハンバーグ定食を。けっこう美味しかったです。
 写真を撮り忘れたので、自家製の野菜炒めを紹介。最近、パスタやインスタント・ラーメンなどに飽きて、野菜(+肉)を中心の食事に切り替えつつあります。冬になって運動量が減って、体が炭水化物を求めなくなったような気がします。白菜・ピーマン・玉ねぎ・しいたけ・ニンニクにベーコンとウインナ。塩コショウで十分美味しいです。時に卵をからめたり、カレー粉を使ったり、キムチを混ぜたり。中華パウダーを入れたら本格的な味になるかも。中華屋さんで美味しいチャーハンにはホタテ・パウダーが入っているという話も聞きます。
 

献杯

 「現代文化論」の13回目。「身体論」の試みはまずまずの出来。甲野善紀さんの「なんば歩き」やローランド・カークのジャズ的なフルート演奏の動画を見せる。
 甲野さんの動画は授業の準備からはじまって結構見ました。機会があれば講演も聞きたいし、できれば札幌で講演と実技の会も自分で企画してみたい。難しいだろうけれど。
 ローランド・カークはジャズ演奏家の中でも楽器との身体接触のサンプルになります。フルートを鼻息で吹いたり、これは授業では見せずらいけれどサックスのリードを鼻にいれたり。
 授業の後で行った「ミツヤ」で偶然ローランド・カークをかけてくれる。数少ないワーナー・ブラザーズの録音だとか。吹く格好はともかく、音は正統的なジャズから少しフリーキーな演奏、そしてショー的な楽しい演奏まで一粒で何度も楽しめます。

 そう言えば伊坂幸太郎の『重力ピエロ』でもローランド・カークのVolunteered Slaveryに言及していました。しかもローランド・カークの、そしてジャズの本質を突くような主人公の言葉が印象的です。
  本当に深刻なことは、陽気に伝えるべきなんだよ
  重いものを背負いながら、タップを踏むように
  ピエロが空中ブランコから飛ぶ時、みんな重力のことを忘れているんだ」


 「ミツヤ」の後は、小料理「しま田」で先月亡くなった先輩を偲んで別な先輩と献杯をしました。

身体論の試み

 「現代文化論」も残すところあと2回。
 自分の本からのテーマはほぼ終わったので、関心のあった「身体論」と今までも扱ったことのある「ポストモダン」でしめようかと。
 「ポストモダン」の方は原稿もあるのですが、「身体論」は初めて。学生にも考えてほしいし、自分も関心のあるでの取り組みましたが、今まで一番準備の時間がかかった。面白かったけれど。
 こんな構成です。

■身体論の意味:普遍性と個別性 ■身体の疎外と復権 ■祈りと身体 ■神/人間と身体 ■ロボットと身体 ■身体と制度 
■スポーツ/遊びと身体 ■ダンスと身体 ■音楽と身体 ■技能と身体 ■道具と身体 ■言語と身体  ■空間と身体 
 内田樹さんの本や対談が参考になりました。画像も用意しましたが、後は動画と説明の準備。
 興奮(混乱)した頭を鎮めるに必要(か?)。

お見舞いと忘年会

 水曜日は2ヶ月に1回の喘息の定期健診。初めてJR琴似駅から麻布駅行きのバスに乗りました。
 検診の後はいつもステラ・プレースの南国酒家でランチ(ビール+紹興酒グラス1杯)。
 木曜日は午後の授業の後、JR病院に入院中の友達のお見舞い。もう土曜日には退院して火曜日からは店を開けるようです。胆石で入院中の薬の抗生物質が体内のある部分を弱らせて肺炎を誘発したような。そう言えばもっと思い病気で入院中の大学の友人が今年肺炎で死にそうになった。この人は糖尿病に血液の癌のような病気などにかかり、昨年は骨折して歩かなくなって、いまはお見舞いに行ってもあまり反応しなくなったようで、心配です。
 さてお見舞いの後は、大学時代の友人二人(A君とW君)とミニ・ミニ忘年会。そこでの短編小説のような話。
 A君の中学時代の友人Kさんが、西高をへて1浪して教育大に進学してW君と友人になった。A君とW君は北高。W君は北大に進学し直し、1浪の僕や2浪のA君と教養部のフランス語のクラスで一緒になります。
 一方、Kさんは教育大を出て国語教師として活躍し、校長にもなったようです。Kさんは西高では僕の1年先輩で、A君と僕がよく行く焼鳥屋の主人Mさん(西高の1年先輩)も知っているようでした。
 さてKさんがなくなった事を知ったW君は律儀な人なので奥さんと連絡を取って霊前にお参りしたそうです。そこでの話も興味深いのですが、少し差しさわりがあるので、ここでは割愛。
 写真は海鮮3種盛り。後ろにビールと紹興酒のグラスが映っています。 

法事と研究会

 土曜日は西野の禅宗のお寺でかみさんの従弟の四十九日でした。横浜で葬儀をしたのですが、道内にも親戚がいるからのようでした。
 まだ20代の息子さんが施主。ここはお母さんがすでに亡くなっていて、その後お父さんが69歳でなくなったので20代の兄妹が残されたのですが、親族に支えられて健気です。
 会食ではビール2杯にとどめて、帰宅。北海学園での研究会に出直しました。
 旭川から出向いてきた会員の発表は、伝記的事実を文学的な解釈につなげて面白かったです。
 懇親会は「ミツヤ・カフェ」。主人(友人)から風邪で会えないけど宜しくとショート・メッセージが入っていたのですが、奥さんに聞くと肺炎で入院中とか。
 9月から10月にかけて1か月胆石で入院した後なので、体が弱っていたのでしょうか、心配です。
 会の雑談では、僕を含む60代の3名がジャズが好きな事に対して、30代の若い?会員が羨ましそうに話を聞いていました。僕らの世代は文学とか映画とか音楽について、飲みながらわいわい言っていた、またはそれしかない時代でしたけど、楽しかったような気がします。
雑草に占領されてもともとあった木が残り少なくなった鉢に雪が積もりました。

フォークナー〜サリンジャー

 昨日は深夜暖房が止まり慌てました。朝になって連絡をして午後きてもらい、30分ほどボイラーの掃除をして治りました。
 そしたら翌日今日は雪で真っ白。暖房がなおってよかった。雪かき3回。いい運動に。
 研究会のテキストの勉強と、講義の準備と、論文の原稿と思ったより真面目な日々。
 ヘミングウェイの研究書を読んでいるとフォークナーとの比較を平石先生が書いていました。
 実は講義の準備の方で「アメリカ文学と北海道の親和性」についてのお説を引用しています。
 ヘミングウェイとフォークナーをつなぐタームは「個人主義」、ブログの前項で気になって引用しました。
 「出自に規定された自己」を描くフォークナーと、「自由だけれど何もない自己」を描くヘミングウェイという風にかなり言い換えてしまいます。
 『持つと持たぬと』のハリー・モーガンは、出自は不明だけれど、妻と二人の娘については繰り返しその責任について語っている。実際に父となったヘミングウェイの「ニック」物における父や息子への希薄な愛情表現とは異なる作品を書いたような。
 講義のほうは「孤児としてのアメリカ」から「とりかえばや物語」、そして最後に来年生誕100年を迎えるサリンジャーについて紹介します。「出自に規定された自己」を嫌い、「自由だけれど何もない自己」を勘違いして、孤独と放浪を気取るホールデンとすると少し不公平かな。
 ちなみに"I'm Crazy"という『ライ麦畑』の原型となる短編のタイトルは「僕は気違いだ」よりは「僕はイラッとしているんだ」の方がいいかな。人とちょっと「違う」"crazy"もよくある若者の態度ですし。
 つまりホールデンは普遍的な若者の感受性の強さと、「大人ってわかってくれない」といういらだちと、孤独の切なさとが相まって読まれ続けるキャラクターになっているんでしょうね。
 写真はシグネット版の帽子をかぶっているホールデン