ハイスミスとヴァ―ジニア・ウルフ

「人文学の挑戦」の準備で『キャロル』についてのテクスト・クリティックをしていると、1950年代の社会が認めないレズビアニズムの幸せな結末が事の他、心に響いた。

Therese smiled. It was carol she loved, and would always love Carol seemed to stare incredulously a moment, the slow smile growing
(テレーズは微笑んだ。テレーズが愛している、いつまでも愛し続けるキャロルだった。キャロルは一瞬、信じられないようにテレーズを見つめたが、やがてその顔にゆっくりと笑みが広がっていった。)

このエンディングが、1920年代のモダニズムの傑作『ダロウェィ夫人』のラストを連想させたんです。これは夫のダロウェィ上院議員のためのパーティの一夜の終わりに、ダロウェィ夫人を愛していたピーターが感じる興奮の描写とよく似ていました。どうでしょうか。

“I will come,” said Peter. What is this ecstasy? he thought to himself. What is it that fills me with extraordinary excitement? It is Clarissa, he said. For there she was.
(「僕も行くよ」とピーターは言った。この恍惚感は何なんだろう?彼は心中で思った。僕を異様な興奮でみたしているのは何なんだろう?クラリッサだ、と彼は言った。そこに彼女がいたのだった。)

そしてこの美しい結末を半世紀以上たって、日本の作家がオマージュ的に引用します。これは筒井康隆さんが書いた『文学部唯野教授』についてのメタ的なエッセイで書いていました。

黙ってサインし続ける唯野の胸には次第に幸福感が湧きあがってきた。・・・いったいなぜだろう。・・・こんなに幸福であっていいのだろうか。・・・唯野は視線をあげた。榎本美奈子が立っていた。

 『ダロウェイ夫人』〜『キャロル』〜『文学部唯野教授』にいたる、幸せな結末のインターテクスチュアルな例として講演に使おうと思っています。