マット・スカダーと自警主義

年末年始はローレンス・ブロックの「マット・スカダー」シリーズを読んでいました。1976年から2011年にかけて発表した17作の内1作は行方不明、1作は研究室にあるので、15作を読みました。今まで通して何回目読んだろうか、たぶん5回くらいは読んでいます。
 もちろん年末年始の娯楽として読んでいるのですが、まとめて読むとこれが結果的にはインターテクスチュアルな読みとなって、あらためて気づく事があります。今回はスカダーが途中から警察の代わりに犯人を殺す展開になる点に気付きました。
その理由として挙げられるのは、警察にそれまでスカダーが調べた事実を持って行ってもそこで証拠がないと付き返される事。刑事本人は認めても検察に持っていくと起訴できないと言われる事。法廷に持ち込めても犯罪に引き合わない量刑で犯罪者がすぐに出てきてスカダーたちに報復するなどの理由で、やむを得ず自警的な決着をつける事に。
襲ってきた犯人を仕方なく射殺する最初の作品は5作目の『八百万の死にざま』(1982)は別として。これは映画化1作目であまりできは・・・。
8作目の『墓場への切符』(1990)で、恋人に重傷を負わせた犯人を殺す。この場合、犯人は絶対的な悪と言うか、この後の2作をふくめて「倒錯3部作」と呼ばれる、倒錯的な気持ちの悪い犯罪者が出てくるので、刑務所に放り込んでも何らかの方法で出て来るかも知れないし、後でマット自身が陪審員と判事どころか神のような役割をしてしまったと反省しています。次の9作目『倒錯の舞踏』(1991)でも同様な行為を。最後に神のような役割はこの後はやらないと明言している。
この作品で自警主義的な処刑は終わりますが、12作目の『死者の長い列』(1994)では、誰も助けてくれない場所に足枷をして犯人を残していく終身刑の罰を犯人に課す。
この点についてふれているミステリー評論はまだないのではないと思っていましたが、『処刑宣告』の二見文庫版(2005)の解説で杉江松恋が「自警団ヒーローのような非情さ」と指摘していました。ただ倒錯的な犯罪に対して、既存の警察・司法組織では対応できないので、自警主義的にならざるを得ないと言う考察はないのでした。
このようにまとめながら、犯人を殺すのは別として、アメリカの私立探偵自体がある種の自警主義の表れだと気付きました。アメリカの探偵小説の自警主義については、はまた別にゆっくりと考え見たい。