アイデンティティもまた越境する

11月12日(土)深夜「100分de名著スペシャル 手塚治虫」を見ました。僕自体は手塚漫画のいい読者ではないのですが、当然のように部分的には読んでいて、この紹介・分析はとても面白かった。
 異性装のブルボンヌとかいう人の考察は、深くて明快で印象的でした。人間って見た目じゃないんだと言う当たり前の事があらためてよく分かりました。映画監督の園子温は漫画家を目指していた事もあったようで、手塚の丸い線について解釈が面白い。後から手塚本人がマルがうまく描けなくなったと現役の漫画家としての限界に悩む場面がありました。
特に『リボンの騎士』のサファイアの性を横断するキャラクターの分析が面白い。また主人公のサファイアが最終的には女性という単一の性に落ち着いて男性と結ばれるのですが、他のキャラクターに横断する性を演じさせ続けるような、作劇上の決着のつけ方が興味深い。つまり主人公は読者や社会のモラルに沿って、しかし作者(アーティスト)の思いは脇の方で実現すると言うような。でも少女マンガの絵自体が男女の区別がつきずらい。また少女漫画ではない手塚治虫の絵も比較的少女漫画とそうでない漫画の絵柄の中間的な存在のような気もします。
この番組は伊集院光君の司会がとってもいいのでよく見ています。頭と性格がいいので、ゲストの専門家も教えがいのある聴き手として光君の事を評価しているのがよく分かる場面も多いです。
 実は(でもないが)ジェンダー上の、という事はアイデンティティの統一や単一性についてはしばらく前から疑問視されていて、例えば上野千鶴子さん編著の『脱アイデンティティ』(勁草書房)も2005年に出ていますから、当然その議論は1990年代にスタートしています。
 さて一人の人間が生まれた時の肉体の性と自分が意識する性との乖離に悩む話はよく聞きますが、それを含めてアイデンティティもまた「脱」とまでいかなくても、「単一」に拘らない複合アイデンティティがけっこう当たり前になってきています。つまり、僕を例にとってみても、家で夫、外で教員、教授会の一員、そして友人、親戚、後輩、弟子、研究仲間、学会のメンバー、テニス仲間、飲み仲間、町内会のメンバーなど、比較的社会的・社交的でない僕のような人間でもこのくらいの場や組織や集団での一員として、それぞれ微妙な役割を演じて、そのような複合的なアイデンティティが本城という緩やかな器の中に収まっているという事でしょうか。
 つまりもともと単一の統一的なアイデンティティの方が無理な要求であって、様々な局面で様々に使い分けていく複合的なアイデンティティの方が自然だと言えます。
 確固としたアイデンティティを持つとか、アイデンティティを確立するとか言っていましたが、それは今は昔の事なのか。それともそのような重要なパラダイムもどんどん変わっていくのか、難しいところです。