『あるキング』文庫版と『マクベス』

「文庫本版」は、『マクベス』についての15回の言及とエピグラフに 『マクベス』1幕1場の” Fair is foul, and foul is fair”の6種の訳を引用していて、『マクベス』は『あるキング』のサブテクストになっています。と言うのも、ここでは「戯曲「マクベス」では〜」という会話があったり、『マクベス』を愛読している人物、また読んだ人が登場していて、戯曲を読んでいなくても、引用をして言及しやすくしています。つまり「文庫本版」は、ダイレクトにシェークスピアの作品である『マクベス』に依拠して、後述のように物語を推進するドライブである事を明確にしています。これってメタ・フィクションとかインター・テクスチュアルな観点から論じる事ができそうです。
 主人公の山田王求が生まれた日に、両親が敬愛する球団監督が死ぬと言う出来事について、マクベス登場の1幕3場における最初のことば”So foul and fair a day I have not seen.” を引用します。「こんなに素晴らしくて、同時にひどい日はない」という意味ですが、同時に「正しい」と「悪い」の線引きが困難な世界についてのコメントでもあります。さらに実はこのセリフはまだ魔女と会っていないマクベスがこのような事を言うので、その解釈としてマクベスはすでに魔女引き付けられていると昔のシェークスピア研究者は解釈しています。
しかし後の場面で息子がフェアに生きる事を主張する父親に対して魔女が疑問を唱える時、「魔女は、おまえや、おまえの父親の心の姿である」と作者が書いているので、伊坂さんは魔女がマクベスの内なる悪の外的表現であるという現代の解釈を承知しているように思われる。というかそんな解釈は今では普通か。しかもその解釈は、息子を傷つけた不良に談判に出かけた父親がついその不良を殺してしまうが、父親は最初の一撃だけで後は魔女たちが殴り続けて死に至らしめる、という部分でも裏付けられる。つまり魔女は父親の悪なる部分の分身。
 同時に『あるキング』においては、マクベスは王になる息子とそれを助ける父親に分裂して、片方はフェアであり続け、片方は時にはファウルも引き受けると言う役割分担がなされている。つまりマクベスの王の資質・善なる部分を息子が、王になろう(させよう)という野望とその善ならざる手段については父親が受け持つ。
 作者は「雑誌版」での変わった両親に育てられた天才少年という物語から、もう少し大きな運命の物語・寓話にしようとし、『マクベス』またはそのセリフを物語を引っ張っていく牽引力にしようと思ったようです。または父親が『マクベス』を読んで魔女の意味や役割を理解したり、またストーリーの進行の説明に利用できる。その説明が「パーナムの森」のように荒唐無稽である場合も、その事を明らかにしつつ使う事ができる。
 しかしこれは物語を豊かにする効果と同時に、これって異化効果をもたらす手法でもあるから、伊坂幸太郎の作品を読んでいるのに、何でこんなにシェークスピアの作品が出てくるの、というネガティブなという印象もあり得ます。ネットをみてもそんな感想もけっこうありました。エンタメと純文学の境界を果敢に越えようとする実験を理解しない読者もいそう。解説の柴田さんの「正しい/正しくないのどちらかも知れない曖昧さを前向きに受け入れる」という指摘もその通りだと思います。と言うか正しい/正しくないの線引きが不可能な混沌とした世界にすでになっているとも言えます。都甲さんの解説にある「決して建前のようにフェアではなかったスポーツにおいて、人のために何かをなしえる充実感を瞬間的だとしても記録する文学の役割」についても同感でした。『ジュリアス・シーザー』のキャシアス的な登場人物が嫉妬から王の暗殺につながる手紙を書き続ける部分の解釈も。
それと『マクベス』は書かれた少し前の、ルターとエラスムスのあいだで論争となった「個人の自由意思」にも影響を受けているような。つまりマクベスが王を殺して王となったのは個人の意志なのか、そして殺されたのは運命なのか、という問題。これは、まだ発表までの宿題です。