善意と悪意

竹鶴21年を送ってくれたIさんは多くの人に愛された本当に善意の人でした。ゆっくりと療養してもらってまたのんびりと飲みたいです。30代の時は職場の先輩の同僚と、土曜日の午後に大学近くのその名も「学園食堂」でよく飲んだものです。たぶんその後はすすきのへ。ただこの善意と言うのは、後述する悪意ほど強烈に影響力を発揮するものではなく、その人といると何故だが心地よい。その人の事を考えると何となくほのぼのといい気持にさせてくれるものです。
 しかし一方では、悪意の方ははっきりと自分に向かってくる矢か弾丸のように突き刺さって来るんですね。しかも強く、きつく。ただこの悪意は、自分の中でそれに対する怒りそして憎しみへと変わり、最後には悪意の人への哀れみへと変化して行く。つまり可哀そうな人だと思ってしまいます
 善意は強くないけれど、持続する。悪意は強烈だけれど、その主体への哀れみへと変化して行くので、その足(影響力)は短い。だけど哀れみは、自分に向けられた悪意を自分の中に長くとどめておきたくはないという無意識の自衛なのかも知れません。それと悪意ってそれを発する本人をも蝕んでいくのだと思います。ま、そのように思いたい。
 いずれにしても、悪意のそばには近づきたくない。善意の近くでのほほんと生きたいですね。