郊外の物語

映画を文学テクストのように、映像の美学にまたナラティブの構造から分析したり考察する方法もありますが、ストーリーやキャラクターをアメリカ文化の視点から考察する文化論的な方法もあります。例えば『フィラデルフィア』(1993)はアメリカ社会の人種差別、同性愛者差別、法廷、家族などの諸問題を理解するのに授業に使えます。『恋に落ちて』は不倫ですが純愛という事と二人の名優の演技で評価が高い映画ですが、これを郊外の物語としても考えられるのではと思いました。
チーバーやアップダイクに代表される郊外の物語は、1920年代の自家用車の普及を契機として、政治・経済・社会・文化など様々な点で、都市中心部と郊外地域の分化が進んだ事から始まります。特に戦後1950年代には自然に接する郊外の一戸建てに住んで、都市の職場に通うと言うライフ・スタイルが小さなアメリカン・ドリームになりました。このアメリカン・ドリームをTVで映像化したのが『パパは何でも知っている』や『うちのママは世界一』 で、芝生のある敷地の一戸建て、2階の寝室につながる階段のある広い居間、大きな冷蔵庫のある明るいキッチンは日本でも憧れたものです。
 でもチーバーやアップダイクが描く郊外の物語は、TVが描く能天気なユートピアを、「泳ぐ人」や「うさぎ」シリーズのようにシニカルにひっくり返してみせます。そしてヴァニラ・サバーブであった白人中流階級の郊外に、中流化したの黒人たちやその他の人種が住むようになり、裕福な白人たちは郊外の奥にGated Communityを作って人種・階級の人工的なパラダイスを作ろうとしていきます。都市と郊外から、どこに誰がどのように住むかという視点から、アメリカの歴史と社会が見えてくる訳です。
さて『恋に落ちて』の主人公建築技師のフランク(ロバート・デ・ニーロ)とモリー(メリル。ストリープ)は共にはニューヨーク郊外のウエストチェスターに住んでいます。偶然出会ったのはマンハッタンの書店リゾーリでしたが、通勤列車で再会できたのは、共に郊外族で仕事や用事でマンハッタンに通っているからです。というか出会うためにそのような設定にしています。
ニューヨーク州のウエストチェスター郡の南部にある住宅街はマンハッタンのベッドタウンというか一種の郊外で、その中でも有名な高級住宅地 Scarsdaleから少し先がArdsley、そしてさらにその先がDobbs Ferryです。そのダブス・フェリー駅から建築技師のフランクが乗り、グラフィック・デザイナーのモリ―はArdsleyから。僕の記憶ではMetro Northという路線のWhite Plains方面だったような。
通勤電車がグランド・セントラル駅に到着し、フランクもモリーも、クリスマス・プレゼントを買うために有名なリゾーリ書店に行きます。この書店が美術書・建築関係の本が多くあると言うのも主人公の職業と関係しています。
この中年の不倫カップルの純愛は、二人のそれぞれの友人の離婚やさばけた恋愛と一線を画していて、古風で好ましいものに見えてきます。と言うか、そのように見えるために純愛路線ではない友人たちを周りに配しているんですが。フランクの友人をハーヴェイ・カイテル、モリ―の友人をダイアン・ウィーストという名優(と言っていいでしょう)が自由な人間を気楽に演じているのも一興です。これも純愛を相対化する視点の導入と言えるでしょう。