仕事と家庭

アメリカの警官の副業について書いた時に思った点ですが、日本における仕事に対する意識と言うのは決して普遍的ではないし、もちろんいい点もあるけれど仕事=人生という圧縮/短絡した考えで、そこから家庭が抜けているのが問題だと思います。でもその日本人の仕事に対する意識自体が、時代と職業によって違うのではというのもあって、少し自分なりに確認してみました。ゼミ生への就活の指導や説明においての必要な機会がありますので。
明治以前は日本でもお金があったら働かなかったと言われますが、本当だろうか?そこにも武士・農民・商人と言う階級や職業の違いによる仕事への価値観の違いはあったのではと思います。この問題は、時代・国・階級・職業・世代による違いが大きいので一般化することは 難しそう。
近代以降の国家はイデオロギーに関わらず、「労働」を称揚してきたと思います。安定的な国家運営のために恒産とそれを良しとする国民の意識も必要だったから。また近代国家が生産の主体を農業から工業に変換していく過程で、農業のような日々の仕事=生産から、工場労働者や都市給与生活者が増えて行く中で労働における主体性を奪われた仕事が中心となっていき、それが都市生活者のアイデンティティー探求のきっかけともなった。それはきちんと仕事をして、ちゃんと家庭生活を営む事で足りるとする多数派の小市民的なモラルを生み出し、社会に利する労働を搾取とに見なす反体制的なイデオロギーボヘミアン的な自由な生活を求める少数派がいて、時に少数派が時代の共感を呼ぶときはあっても、大体は社会を維持する方向に沿って行ったと思います。
 そのような動き自体は日本だけのものではないけれど、「働くこと」が「よいこと」=「生きること」となっていったのはなぜだろうか。その前提があって、戦後日本の復興のために「懸命に働くこと」が戦後日本のモラルかつモラールというか必要欠くべからざるものもあった訳ですが、復興なった後もそのまま「過剰に働くこと」を続けて行った。その時には「働くこと」が自動的な目的となっていった。それが成立したのは、敗戦後の復興と言う大目的を達成したいと言う大きな物語をほぼ大多数の国民が共有して、それを信じて働いた。それは自分たちの日々の暮らしと家庭を存続させる小さな物語と連動していた事も大きい。また大多数に同調すると言う日本人のメンタリティも作用したでしょう。
問題は復興がそれなりに実現した後に、また中位の物語を掲げてまた頑張ってしまう事です。それは高度経済成長と言う明治以来の欧米に追い付けと似た図式です。経済成長が本当にいいのか、欧米先進諸国に追いつく事が日本と日本人にとって本当に正しい事なのかを吟味する作業はほっておいて、一丸となって邁進する。敗戦後の復興のような危機的な状況において力を発揮する事は日本人は得意だと内田樹さんも言っています。
確かに「働くこと」=「よいこと」または「過剰に働くこと」=「よいこと」という図式を何も考えずに受け入れれば、会社は利益を上げ、給料は上がり、何も悪い事はない。家で奥さんが不満を持つ以外は。そのうち会社を疑似家庭とみなすようになり、午後5時以後もだらだらと仕事を続け、そのまま同僚と飲みに行く。それって結構楽ですね。本当は家庭のために仕事をして、その仕事も真面目に取り組むように両立させる必要があったのですが。企業戦士が家庭を顧みず、定年になって職場を去るとそれ以外の人間関係を構築していないので、家庭で濡れ落ち葉とみなされるようになる。家庭のための仕事のはずが、仕事が自己目的化して、本来の目的を見失っていく、『ブレーキング・バッド』そのものですね。主人公のウォルターは最後の直前まで家族のためって言い続けていましたね。家族の方は自分勝手な生き甲斐を追求してきた主人公をとっくに見捨てていたのに。
 国家が運営して行くために恒産を必要とし、企業は働く社員を必要としていたけれど、社員はその前に自分または家庭の生活のために働いているはずだった。しかも「働くこと」が「よいこと」であるから、生計を得るためのであっても、一生懸命に取り組む。それ自体は悪くはないけれど、「生きること」=「自分の人生を生きる(独身・既婚を問わず)+「働くこと(生計を立てる、社会に貢献する)」くらいのシンプルな図式で大丈夫だと思うのですが。