ロボコップと記憶

卒研コンテストの審査をしましたが、懐かしいアシモフの「ロボット三原則」に言及する論文がありました。でも結論としてロボットと人間の共生を探るという頓珍漢なものになっていました。ロボットについて考えるというのは、フランケンシュタインやアンドロイドが描かれる小説でもそうですが、最終的に人造人間が「人間とは何か」という問題を照射する形になっています。そのような意味では、「ロボットと人間の共生」というような結論は、「人間と他者(生物も含めて)との共生」という意味でなければ、少なくても舌足らずという事になる訳です。
 最近BSでもみた『ロボコップ』(RoboCop、1987)を思い出しました。よく知られているように、重傷を負った警官の体から作ったサイボーグ警官「ロボコップ」が活躍するSFアクション映画で、低予算で作られたのですがヒット作となり、続編の『ロボコップ2』や『ロボコップ3』が、さらにはテレビ・シリーズやアニメなども作られた事はそんなに知られていないでしょう。
監督はフィリップ・K・ディックの原作を荒っぽく映画化した『トータル・リコール』(Total Recall、1990年)や『氷の微笑』(Basic Instinct、1992年)のポール・バーホーベンなので、性欲や暴力衝動を大雑把に描く人というイメージです。『ロボコップ』も同様にそうなのですが、映画化の価値とは別に、見ている方としては人間とロボットの違い、その基本となる記憶、そして人間のアイデンティティーを記憶として定義していいかどうか、などの想念をかきたてられる映画でもあります。
かつて自動車産業で栄えたデトロイト犯罪都市と化し、マーフィ巡査は指名手配中のマフィアを追跡中に大けがを負います。「警官のロボット化」を計画中だった警察を民営化した巨大企業は、マーフィを死んだ事にして生体部分を利用してロボコップの試作品を作ります。ロボコップとなったマーフィは驚異的な能力を発揮して治安回復に貢献しますが、人間の時の記憶が断続的によみがえり、ついには自分の過去を思い出してしまいます。偶然に以前の自分の家の前を通って、何か懐かしいしかしそれが何であるかが分からなくもどかしく思う、僕らも抱くような普遍的な気持ちを描く場面が印象的でした。ただ人間のアイデンティティー(そのようなものがあるとして)の根元が記憶にあるとした場合に、年を取って記憶が曖昧になったら、人間でなくなってしまうという事になりかねず、その点は留保して考えなくてはならないとも思っていましたが。