「告発の作法」再び

 今朝の朝刊(『朝日新聞』です)の高橋源一郎さんの「『愛国』の『作法』」(「論壇時評」)を読んで考えた。朝日新聞誤報と謝罪に対する「告発」の凄まじさと下品さについて書かれていて同感した。この「告発の作法」を逸脱した告発のあり方は、日本の前の戦争の時や、2001年9月11日の時のアメリカの愛国的な言動に関連する。特に9・11における星条旗の氾濫は現地で印象的だった。その際のスーザン・ソンタグの冷静な発言はいわゆる「愛国者」の怒りを買った。彼女は「正義と真実の相剋の中で悩む」というごく真っ当な発言をしたのだ。しかしソンタグの本当に愛国的な発言はブッシュ政権のはじめたイラク戦争によって踏みにじられる。
2009年2月27日のブログに「他者を告発する事は難しい。告発する自分をある種絶対的な善の立場に置いてしまうからだ。もっとも自分が正しいと思わなければ人を告発できないだろう。」と書いたが、「告発」も「愛国」も自分を絶対的に正しいと位置付けするがゆえに間違っている。だからと言って常に、迷って、揺れて、ぶれている訳ではない。取りあえず自分は正しいと思う。それまでの経験や思考の積み重ねを踏まえて、多分正しいと思う。しかし、それと同時に本当に自分は正しいか。自分の正しいと言う考えは間違っていないか。そのような補正的な視点を頭の隅に置いておく。そんな事を無意識にしないと、絶対的な愛国者や告発をする者の立場に自分が立ってしまい、それこそ絶対的に許せないと思います。