モノと情報

 大量生産〜大量消費の時代が第1次大戦後の1920年代に始まって100年近く経とうとしています。モノによる贅沢も経験して、自然や地球の資源の事も考えると要らないものは要らないと分かってくる。それは1960年代の繁栄を謳歌したアメリカに起きた価値観の大きな変革と似ている。カウンター・カルチャーとポストモダン。そして断捨離のコンセプトも僕が年を取って来てもうモノなんか要らないという意識を持つようになったように、社会もしくは世界も十分にモノをエンジョイして必要がなくなって来た。つまり社会自体が青年期から老年期に向かって来ている。モノがない時代からモノが豊富な時代とそれを享受できるエネルギーを持った時代。そしてそれに満足した(飽きた?)後の断捨離の時代。それは人の成長と老化の時期と重なる時代の必要なプロセスのようにも思える。
 それとモノが持っていた意味を情報に限定すると、情報を運ぶメディアの形がここ数十年で圧倒的に変わってきた事も大きい。本から電子書籍、紙の書類から電子ファイル、CDからアイポッドなどなど。捨てようとしているVHSビデオもDVDに変わって来たし、VHSに録画していたテレビで放映された映画もテレビ内臓もしくは外付けのハードディスクに直接録画できる。また複数の衛星放送で旧作・新作を絶えず流している。音楽も最近はCDをオーディオ装置で聞くよりも、iPhoneで聞いたり、youtubeで見たりします。とすると、情報を蓄積し摂取する方法が変わってきたのであって、情報そのものへの関心は変わらないのかも知れません。でも身の回りにモノ的に、物量的に存在し圧迫する事が減ってきている。小型化したり、ネット上や電波で送られてくる、飛び交っている情報を適宜、必要に従って取って来る事ができる。つまり、モノ=情報に飽きたのではなくて、形として身の回りや居住空間などの物理的空間を圧迫するモノを選択しなくなったという事だろうか。