「捨てる」哲学

最近、研究室の引っ越しの時や、夏休みの本とビデオの整理をしながら、「捨てる」事の意味についてつらつら考えています。基本的には生きるために必要なものは何か、つまりそれは何を持って生きるか、結局は生きる事はについて考える事につながるような気がします。時々書いている「原理主義」です。「〜について書く」時に「〜」について検討しますよね。それは「〜」が自分にとってどうして関心があるかについても考える事になる。そして「〜について考えて書く自分」を意識し、「〜について書く」=「〜について書く自分とは何者かについて考える」になっていく。
敷衍すると(これも「原理主義的」かな)、「何が必要か/不要か」を検討する事は当然のように「(自分にとって)何が必要か/不要か」を考える事につながり、究極的には(これも「原理主義的」)「何が必要か/不要かと考える自分」と向き合う事になります。思索・思考は基本的に原理的なものになるんですね。
さて「捨てる」哲学は、やましたひでこさんの著作で紹介されている「断捨離」という言葉と関連しますが、ご存知のように、ヨガの「断行」・「捨行」・「離行」という行法から来ています。人生または日常生活に入って来る不要な物を断ち、今ある不要な物を捨て、それによって物への執着から離れる。日常生活における不要な物の整理を少し哲学的な風に表現している(だけ?)ような気がします。
確かに物にあふれたわれわれの日常は、「もったいない」という価値観では肯定できないレベルにまで居住空間を圧迫し、それは知らないうちに心理的な負担となっている。修業僧や方丈に住む仙人にはなれないけれど、少しだけ身軽になり、必要なと思える物にだけ囲まれて、ゆったりと生きる事が年齢的にも肉体的も必要になって来ています。ただ現実的な処方としては、「断捨離」の「捨」が一番必要で実行しやすいです。と言うのは入って来る物を断つ事や物への執着から離れるよりも、今あるたくさんの要らない物(これが本当にたくさんある)をどんどん捨てる。これは簡単にできて、広がった空間も、捨てる事そのものも心地よい。
実はずっと前から、長い休み毎、年度の終わり毎に、会議の書類などを処分していました。定年や研究室の移動を意識していた訳ではなく、紙がたまっていくのが嫌だったんですね。実際に二度とふれない会議の書類が殆どです。万が一必要になったら、事務の人にこれこれの時の資料ってありますかと聞けばいい。また事務と言うのはそのような書類をきちんとファイルにして整理しておいてくれるんです。
でも「断舎離」を要請する社会は老年期だと同時に思います。もう作って・買ってという消費社会ではなくなりつつある。それが自然の枯渇なのか、消費に人々が飽きたのか、禅的にシンプルに生きたいのか、と考えるとやはり文学的にはそのすべてを含みつつ、そうなったてきたと思います。
 それとは違う意味で、「捨てる」を実行している自分って、何か過去にとらわれない自由な人間の様だけど、本当は過去なんてどうでもいい刹那的なデジタルな意識の冷たい、中身のない人間なのかなとも思えたりして。