名作を見直す

死刑執行人もまた死す』(原題:Hangmen Also Die! )をBSで再見しました。フリッツ・ラングの映画はノワールとも関連が深いので研究費でDVDを買って見ています。この作品は1943年のアメリカ映画で、1942年のナチス・ドイツチェコ統治の副総督ラインハルト・ハイドリヒ暗殺事件を下敷きにした作品で、反ナチのレジスタンス映画の傑作と言われています。が、再見して種々の疑問が。
ナチス占領下のプラハが舞台で「死刑執行人」としてプラハ市民に恐れられていた副総督ハイドリヒが暗殺され、秘密警察ゲシュタポは暗殺犯捜索に手段を択ばないところまでは史実に近いようです。その後はフィクションですが、偶然レジスタンスのメンバーである暗殺犯をかばったマーシャ・ノヴォトニーは、そのために大学教授の父親が人質に取られたことを知ります。暗殺犯スヴォボダが医者である事をつきとめ、に自首をさせて父の命を助けようとします。しかし、ゲシュタポの残忍な取調べを経験し、父の言葉もあり、自由のために戦う市民としてスヴォボダらとともに活動していく事になります。
ただこの主人公のマーシャやレジスタンスのスヴォボダが能面的な表情と硬直した演技でどうも彼らが出てくる画面が生きてこない。かえって戯画化されたナチスの警部たちが面白い。非人間的で残酷なのだが生きいきとしている。この主役の扱いはドイツ表現主義の影響もあるのだろうか。つまりリアリズムよりは象徴的な様式的な表現で内的経験の真実を語るという方法なのかと思うけれど、それが成功していないようにも見受ける。そしてナチス=悪、レジスタンス=善という図式も硬直した現実理解のようにも。だからチェコ市民の自由を求める行動も教条主義的に見えてしまう。どうもナチスを逃れてハリウッドにやって来た映画作家の意余って力及ばずとするのは言い過ぎだろうか。ブレヒトも脚本に参加しているようだけれど、演出の問題だろうか。
実はノヴォトニー教授を演ずるのが ウォルター・ブレナン。ブレナンと言えば先に見ていたジョン・ウェイン主演の西部劇『リオ・ブラボー』(ハワード・ホークス監督、1959年)では剽軽な老人(64才)を演じていました。また『荒野の決闘』(1946)では悪役クラントンを演じていたので、役の幅は広いとも言えます。ヘミングウェイ原作、ハワード・ホークス監督、ボガート主演の『脱出』(To Have and Have Not 1944年)では剽軽な役の肩慣らし的な役でした。