ジョン・マクローリンを聞き続けて

イギリス生まれのジョン・マクローリン(1941)は1969年にアメリカに渡り、トニー・ウィリアムスのライフタイムに参加。マイルス・デイヴィスの『イン・ア・サイレント・ウェイ』(In A Silent Way)、『ビッチェズ・ブリュー』(Bitches Brew)、『ジャック・ジョンソン』(A Tribute to Jack Johnson)にクレジットされている。マイルスはジャック・ジョンソンのライナーノート中で高く評価していたが、僕もここでのマクローリンのリフはジャズ・レコード史上最高・最強だと思います。マイルスは最初ジミ・ヘンドリックスを使おうと考えていたようですが、僕はこのマクローリンの起用が『ジャック・ジョンソン』の成功の理由だと思います。
1971年の『マイ・ゴールズ・ビヨンド』(My Goal's Beyond)はマイルスの元を離れ、マハヴィシュヌ結成前で何故か触れられていない資料が多いですが、僕的には印象深いだけではなくて、重要な作品。ヒンドゥー教に改宗して、初めて自分の名前に「マハヴィシュヌ」を付け加えた。アコースティック・ギターを前面に打ち出した最初の作品で、インド文化にのめり込んでいったマクローリンらしいオリジナル・ジャケットが素敵だ。内省的な彼の性格と演奏が聴き手をも落ち着いた気持ちにさせる。音楽が宗教的とか哲学的と言うと少し眉唾ですが、マクローリンの場合はそうではない。 
同年1971年マクローリンは自己バンドのマハヴィシュヌ・オーケストラを結成。ジェリー・グッドマン(vl)、ヤン・ハマー(key)、ビリー・コブハム(ds)という強力な初期メンバーでした。アルバム『内に秘めた炎』(The Inner Mounting Flame)と『火の鳥』(Birds Of Fire)などの中で、インタープレイと言うよりはソロのバトルのような激しい演奏が印象的でした。
マハヴィシュヌ・オーケストラの解散後は、インド人音楽家たちとのユニット、シャクティを結成。ワールドミュージックの先駆的なインド音楽をアコースティックに演奏したが、ここでの印象は薄い
それよりも、1973年を発表した、ヒンドゥー教徒カルロス・サンタナとのコラボレーション『ラブ・デボーション・サレンダー』(Love Devotion Surrender)のコルトレーンのカバー曲などが印象深い。
1979年、フラメンコのパコ・デ・ルシアラリー・コリエルと組んでトリオを結成する。1980年にはコリエルの代わりとしてアル・ディ・メオラが加入。僕はフィラデルフィアでライブに来ていたコリエルと話をしましたが、とてもいい人でした。しかしスーパー・トリオとしてはどちらにしても、ディ・メオラ参加バージョンで、アル・ディ・メオラ作曲の「メディタレニアン・サンダンス」(Mediterranean Sundance)が大好きです。この曲はラジオで渡部香津美が紹介していたElegant Gypsy(1976年)に収録されていました。
さて1980年代にピアノ・デュオで有名なラベック姉妹のカティアと結婚していた時期は飛ばして、新生マハビシュヌの第2弾『アドベンチャーズ・イン・ラジオランド』のデジタル・シンセ・ギターの迫力がすごいです。また1997年の『ザ・ハート・オブ・シングズ』がすごい。ゲーリー・トーマスのサックスに、デニス・チェンバースのドラムと言う、当代最高の黒人ジャズマンを従えたジャケットがその、強力でハードで、かつ音楽的な内容の濃いサウンドを象徴しています。