物語はジャンルを横断する

12月14日(土)に行われたシンポジウムの報告を司会として書いたのですが、支部ホームページでのアップは来月なので、ここに。
今回のシンポジウムは準備のスタートが遅れましたが、結果的には支部会員、特に道外の支部会員で映画に詳しい方の参加もあり、いつか文学と映像についてのシンポジウムができればと常々考えていた事が実現できました。コーディネータ兼司会として、関係者の方たちに深く感謝申し上げます。詳細については、次号機関誌に掲載されますので、それをご覧頂くとして、まだ記憶と印象が新しいうちに簡単な報告をさせて頂きます。
シンポジウムは「物語はジャンルを横断する」と題しましたが、「文学と映像」の関係について考察する内容です。もちろん単純な比較は最初から避けたいと思っていました。実際には物語が文学と映画と言う2つのジャンルに架橋する状況について、文学の側から、次に映像化される事で物語がどう変貌するか、そして最後はテレビというメディアは物語をどう扱うかについて語って頂きました。
西谷氏が試みたのは、Hemingwayの”The Killers”を作品自体が持つ映像性を意識しながら読む事と、実際の映像化を念頭に置いて読むという事でした。例えば前者においては、冒頭の二人の殺し屋の名前が会話の中で徐々に明らかになるのは、われわれの現実認識のプロセスを模倣した提示の仕方で、これは映画的だと言えます。また頻出するドアのモチーフは、その開閉がシークェンスの仕切りとして機能すると指摘してくれました。実際の映像化については、3人の監督(ロバート・シオドマクアンドレイ・タルコフスキードン・シーゲル)による冒頭の殺し屋が食堂に入ってくるシーンの比較をしてくれました。ハリウッドの2監督は外から入ってくる殺し屋を店の内側から撮っています。タルコフスキーが映画学校の卒業制作で監督した作品では、殺し屋の視点で店のカウンターに近づいて行っています。また佐々木マキの漫画版(『ガロ』)では、殺し屋がいきなりカウンターに座っていると言った省略的描写の紹介も興味深かったです。
塚田氏は冒頭、文学と映画は異なるメディアなので単純な比較は意味がないと言う過激な?発言から発表を始めました。しかしそれは、原作の方がいいと言う文学原理主義的な見方を相対化する戦略でもあったようです。実際には単なる比較研究ではなく、ジョン・チーヴァ―の「泳ぐひと」(1964)をフランク・ペリーが「泳ぐひと」(1968)として映画化する現象を、1960年代の社会背景と映画界の諸問題を含めて論じてくれました。特に主人公ネッドが泳ぎ継いで行く「プールの文化史」が興味深い指摘でした。それはターザン映画における「水とロマンス」、そしてジャングルを模したプールと南海映画との関係、ネッド(バート・ランカスター演じる)の逞しい肉体とその背後にある脆弱な精神との乖離にまで発展していきます。この誇示される男性性は、アメリカン・ニューシネマに出てくる銀行強盗やカウボーイの不能と共通するという指摘も面白いものでした。
加藤氏はもともと音楽用語であったマッシュアップ(mashup)という原作の映像化の手法について紹介してくれました。これは2つの曲からボーカル・トラックと伴奏トラックを取り出してミックスし、それを別の曲のようにする音楽の手法ですが、これをテレビや映画にも使うと、例えば『高慢と偏見』にゾンビを加えて『高慢と偏見とゾンビ』とか、リンカーンにバンパイア物をミックスした『リンカーン/秘密の書』になる訳です。そして映画とテレビの垣根がなくなっているという現象と、そのメディアの特質から異なる作品として表れるという、相反する現象の指摘がありました。前者においては、両メディアにおける人的交流とテレビの予算拡大、そして作り手も見る側もテレビに映画的経験を求めている事から、両者の境界の意味が薄れているという指摘です。後者においては、全部ではないけれどシリーズ物というテレビの特性を考え、今アメリカで評判のテレビ版『スリーピー・ホロー』が例として挙げられました。そこでは原作のゴシック的要素が、ダーク・ファンタジー的な活劇に変貌しています。ただ、最初の原作のエッセンスを第1話に盛り込んでも、物語が拡大・延長して元の原作は消えてしまうのではという指摘もありました。
シンポジウム全体としては、3本の発表がそれぞれ文学と映画の物語を深く、濃く、熱くそして興味深く語ってくれたので、司会として貴重で楽しく有意義な時間を参加者と共有できました。