『メディア論』再読

 同僚が駅前の紀伊国屋書店のフリー・スペースでマクルーハンについて話すと言うので『メディア論』を再読しました。
 1964年発表、69年に翻訳が出た『メディア論』は僕が学生の70年初頭に流行?してあまり訳も分からずに?みんなでホットだクールだとかと言っていました。
 さて今回のために読み直してみると、マクルーハンってもともとカナダの英文学者だから、シュークスピア、ブレイク、エリオット、ジョイス、それにパウンドまで登場します。逆にメディア論を専門の人が読み解く時に、英文学の知識がないとコンテクストが理解できないような気もします。でも英語圏の学者・研究者・知識人はこのあたりが常識として頭に入っている、またはコンテクストでだいたい分かるのだと。
 さてお話はマクルーハンの説明から、ウイキペディアの解説の間違いの指摘、それが"extension"という重要な用語が「拡張」で済ましているけれど、「延長」、「増強」などの意味でも使われていると言う。また『メディア論』で知られているマクルーハンだけれど、最初の『機械の花嫁』、最後の詩論までふくめて考えないとマクルーハンの全体像は理解できないとの事。
 またマクルーハンは64年に文字文化のまとめとして『メディア論』を発表したけれど、現在の時点からこの指摘が間違っているとか、あの予言が当たっているとかいう見方はよくない、というのも理解できました。
 僕としてはある種サブ・カルチャー論の『機械の花嫁』から、文字文化の整理のような『メディア論』で電子文化の入り口で終わっていて、予言ではないけれどポストモダンのメディア論的な視点まで行きつかなかったのかなと思いました。これはまあS先生の戒めるような、ないものねだりなのかもしれません。
 あとはメディアと空間と言う視点に、時間の視点が少し欠けているかな。でも英文学者だったマクルーハンの最後の方の著作が詩論だったのは興味深い。口承文化に対する文字文化が分析的だとすると、詩の言語は分析を拒否するような気もするけれど、マクルーハンはニュー・クリティシズムの洗礼を受けた時代の英文学者なので、まあ徹底的に分析するタイプだったのかも。
 紀伊国屋の会場はかなり寒くて、少し人の話し声もしてあまりいい文化的空間とは言えませんでしたが、講演は面白かったです。
 写真は『アニー・ホール』(1977)に本人として出演したマクルーハン、66才。やっぱりウディ・アレンよりはだいぶ背が高い。『アニー・ホール』は、カメラの長回し、会話の多さなどで転機的な作品とされているけれど、このウディ・アレンがカメラに向かって話しかけるシーンはヌーベル・バーグのゴダールの影響のような気がします。