メタ的思考

 最近では支部大会のシンポジウムで司会のK先生が、シンポジウムでは講師は完成された発表ではなく話題提供をするというような事を仰っていた。僕も昨年発表した時講師仲間は原稿を用意して発表をし、僕だけレジュメを前に話をして、後からこれで良かったんだろうかと仲間に聞いたら、やはり話題提供でもいいんだよと言われた記憶があります。しかしこれには落ちが合って、このシンポジウムは支部機関誌に特集として掲載されます。そしてやっぱりというか、僕だけが原稿を提出できませんでした。今年は2本原稿を落としました。
 さて「メタ」というのは「〜について」という意味で、例えば「メタフィジクス」は古代ギリシャ哲学において、「自然」(フィジクス)についての考察が行われた「後に」(メタ)のが「形而上学」(メタフィジクス)です。
 他の例では「言語」についての考察は「言語学」=「メタ言語」。すると「メタフィクション」は「小説についての小説」ですから、登場人物に作家や読み手が登場したりする、小説=虚構であることを意識させるような小説の事です。
 じゃ「メタ映画」もあります。例えば「8 1/2」のように映画監督が主人公の作品、ゴダールウディ・アレンの作品の様に登場人物がカメラに向かって話しかける映画などがそうです。
 実は僕の様に小説について論じる研究も「メタ的営為」です。批評理論についてなら「メタ」が幾つも中に、奥に入れ子上になっていきますね。つまり「作品について」の「批評の方法について」の研究ですから。というとどんどん一次的な対象から遠ざかるようで、何をしているんだか曖昧になっていくような気もします。
 一方で、授業や講義でも「北米文化論」では「北米」の意味するところ、「文化」の定義、そしてそれらを「論」ずる授業の枠組みから説明したくなる僕は「メタ的思考」に骨がらみになっているような気もして・・・