孤児としてのアメリカ

 8月8日に「孤児の系譜」、8月13日に「若手翻訳者と孤児」を書いたのですが、その続き。
 アメリカ文学にはメルヴィルからトウェイン、そしてフォークナーに至るまで、キャノン(アメリカ文学における正典)作家にも「孤児文学」といえる作品があるという事はアメリカ自体が、父たるイギリス(・ヨーロッパ)から自ら離れた「孤児」的国家ともいえる。しかし自己追放者としての孤児(アメリカ)もまた、規範としての親を探し続ける。それはキリスト教の神であったり、国家のリーダーとしての大統領であったり。
 そんな風に孤児の事を考えていると、」「普通?の孤児」の他に、「「自己追放者としての孤児」、「戦時下における孤児」、「貴種流離譚としての孤児」など、いくつかのサブ・テーマが浮かんでくる。
 『越境』(C・マッカーシー)のビリーは、ちゃんと両親はいるのに自ら家を出て放浪の旅を続けます。そういう意味では、メルヴィルのイシュメル(『白鯨』)と同様、自己追放者というか、主体的かつ選択的孤児と言えます。ビリーの場合は、アメリカが失った野生の象徴としての狼を、イシュメルの場合はエイハブ船長によるの愚行としての復讐とその対象である白鯨(父としての国家、アメリカ)についてを語る存在として。
 「貴種流離譚としての孤児」は『小公子』、『小公女』から『王子と乞食』、そして『ハリー・ポッター』に至るまで、いじめられっことして社会の現実や底辺を経験する事が、「貴種」としての「王学」またはイニシエーションとして機能する、基本的には貴種たる出自が明らかになって、そして庶民の現実も理解できる聡明な若者ができあがる。『オリバー・ツイスト』もその亜流でしょうか。しかし「よき父親」だけでなく「悪しき父親」も出現して、成長譚を今少し複雑に作る物語(ハリー・ポッターの最終版もそうなのでしょうか)もあります。
 「戦時下における孤児」は、いわゆる第三世界(低開発国から、発展途上国と名前を変えても変わらない現実があると言う事だろうか)のアジア、アフリカ、南米のように現在でも戦争が続いている、またはつい最近まで独裁国家があったような場所では、これからもこのような暴力的に親を奪われた「孤児」の教養小説や成長物語とは異なる物語が語られるのではないだろうか。
 因みに「孤児としてのアメリカ」は開拓が終わり、領土拡大・帝国主義的展開を始めていく1989年の米西戦争の頃から、「厳父としてのアメリカ」に姿を変えて、世界にその権威を蒔き散らかしていく。