ただそこにいるだけの人

 今日は月曜で、結婚記念日なので在宅しています。本当の理由は定期試験も終わり、土日にも出たので、久しぶりに家でのんびりしたいと考えたのでした。
 ピーター・セラーズ主演の『チャンス』(1979、ハル・アシュビー監督)がスター・チャンネルで何回も放映しているので時々断片的に眺めていました。コジンスキーの原作は『庭師 ただそこにいるだけの人』(1971)と訳されていて原題の"Being There"に近い。主人に偶然(by chnace)拾われたチャンスは孤児だった。主人の家で庭の手入れとテレビだけを見るチャンスは、知能に障害をももった世界からはぐれた人間だったが、主人の死後、またも偶然財界の大物に面倒を見てもらう事になり、その庭に関する言葉が寓意的な箴言のように受け取られ、大統領候補に擬せられるようになる。
 しかしこの映画を見ているとチャンスを演じるのがピーター・セラーズなので、クルーゾー警部のような馬鹿な事をしでかしそうに見えて、映画的記憶が映画の鑑賞に邪魔になるのかなという事と、キャスティングに難ありとも思いつつみてました。ピーター・セラーズってチャンスの無垢を体現していないんですね。
 もう一つは、庭についてしか発言できないチャンスの言葉を勝手に深い経験と知識に裏付けられた言葉のように思ってしまうのは、人が聞きたい事しか聞かないと言うコミュニケーションのネガティブな基本について表現しているようにも思えます。つまりチャンスを知的に優れた大人物と持ち上げる人たちは、自分たちの考えを容姿端麗でいかにも思慮深くみえるチャンスの庭の言語に読み取ろうと無意識に偽っているんだと思います。