ヌーヴェル・ヴァーグとシネマテーク

 『キネマ旬報』の最新号の特集「ふたりのヌーヴェル・ヴァーグ ゴダールとトリフォー」を読みながら、高校生時代に通った札幌のシネマテークによる上映映画を思い出した。63年の『カラビニエ』や65年の『気狂いピエロ』を市民会館か道新ホールでみた記憶がある。このシネマテークでは最新の非商業映画だけではなく、デュビビエの戦前の名作『舞踏会の手帖』(1937)やアメリカ時代の『運命の饗宴』(1942)などのの古典も上映していた。レンタルビデオなどない時代(1968)の話です。
 さてヌーヴェル・ヴァーグの二人の旗手ゴダールとトリフォーが5月革命のさなかカンヌ映画祭粉砕で共闘し、その後訣別して左翼映画と商業映画に分かれていく理由と過程が興味深い。銀行家の父とスイス人の母を持ち、ソルボンヌ中退のゴダールブルジョワ左翼振りと、両親に感化院に放り込まれ、中学中退の悲惨な出自を持つトリュフォーとの違いが面白い。
 今考えてみるとゴダールの思想的には左翼小児病的、手法的にはダダ的(脈絡のないショットの飛び方や、機械的な繰り返し)を批判的にまたは冷静に分析できるけれど、60年代の高校生には分からないだけに衝撃的だった。
 またトリュフォーフィルモグラフィーを俯瞰的にみると、子供時代の物語を描き続けて夭逝したような気がする。こうあってほしいと言う家庭における子供時代への渇望だろうか。具体的に言うと、『大人は判ってくれない』(1959年)、『野性の少年 』(1970年)、『家庭』(1970年)、『トリュフォーの思春期 』(1976年)。それと女性への渇望も彼の主要なテーマだった。
 話が飛ぶようだけれど、内田樹さんの「マルクスの読み直し」についての解説(についてのブログ)によると、マルクス(を読む事)が当時の若者のイニシエーションだったと言う指摘が、政治に関心はあるけれど積極的に参加できないノンポリの映画少年にとっては、ヌーヴェル・ヴァーグだったような気がする。アメリカン・ニューシネマはそのもっと分かり易い、アメリカ版だった。アメリカン・バージョンはすべて分かり易いので普及するんですね。しかも『俺たちに明日はない』のプロデューサーのウォーレン・ビーティ(もちろん兼主演です)が、監督候補にトリフォーを考えたが、『華氏451』のため断られ、続いてゴダールにも断られたというエピソードは、この二つのムーブメントの関わりを示唆するようだ。
 分からないけど面白そうがキーワードだと思う。つまり面白く分かり易いアメリカ文化に浸食された?日本の若者には大人になる契機が与えられていない。いや若者だけでなく、大人もそうか。分かってしまうと、気持ちがいいけれど、今自分がいるその段階にとどまってしまう。分からなくて、宙づりになっている不安定な状況が、知りたいという次にステップに向かうきっかけになるのだが・・・