過剰なルール

 現在の家の近所のごみ収集は、元の家のと比べるときちんとしています。前の近所はバス停やスーパーまで1分でとても便利でしたが、同時に飲食店が班内(町内会の最少単位)にあって、前の日に生ごみを出したりして、カラスの餌になっていました。
 その点、現在の家は交通などの利便性は落ちましたが、近所の人のマナーもちゃんとしていてごみ収集場は清潔さです。しかし清潔さとは別に、4月1日から札幌市のごみの分別が今までより細かくなり、雑紙の日に段ボールが出せなくなりました。夕方帰宅すると収集場所に残っており、すごすごと引き取りました。
 唯でさえ札幌市のごみ分別規則は細かいと言われているようなのにさらに細かくしたという訳です。つまり焼却炉の機能が高くなっているので、こんなに細かく分けなくても、焼却して有害物質が出ないのに、相変わらず細かく分別し続け、さらにそれを細かくしたようです。このあたり確認していない情報を基に意見を言おうとしているので若干、歯切れが悪いですが。
 「規則を細かくすると、それを順守しようとする意識が後退する」と誰かが言っていました。えっと私ですが。このでっち上げの箴言の主旨は、規則を作る側は最初は必要な要請によって規則を作るのでしょうが、それを守らせられる側は、最初の必要な規則についての了解して守ろうとする気持ちが薄れてしまうという事です。何だか説明しているようで同じ事を繰り返しているような。
 つまり規則を作る側は、机上でこうなったらこうだと、これにはこういう事が出てくるとか、いろいろと考えたくなります。これは理解できます。賛成しませんが。しかし規則を守る側からすると、細かくなればなるほど、ここまで細かくする必要があるのあるかという疑いとともに、もともとはあったはずのそれを順守しようと言う意識が薄れてくるような気がします。少なくとも僕はこんなに細かくするのは何か別の理由があるのではと疑います。例えば、分別のために計上した予算や雇った人を確保するために、細かくし続ける、とか。役所という組織は現状を維持する、または既得権を譲らないと言う癖があります。当該年度の予算は使い切らないと、次年度減らされるから、年度末になって慌てて使い切ろうとするという事例を多くの人は知っていますよね。
 もしそれが細かくするための主たる理由なら、制度や組織の本来の主人たる市民に迷惑がかかるのは本末転倒だと思います。だからいつもある程度の期間をおいて、何のための制度や規則なのか、再点検をして行くべきだと思いますね。けっこう真面目な結論でした。