黙示録的イエーツ

 12月の支部大会シンポジウムの準備としてカリフォルニア文学からLA文学について文献を探しつつ読んでいます。その中で講師仲間の言及したジョーン・ディディオン女史の"Slouching to Bethlehem"(『ベツレヘムに身をかがめて』)のペーパーを再読。
 ディディオンはカリフォルニア文化、LA文化に関する必読作家で、僕も映画『チャイナタウン』論のノーツでふれています。そして60年代論では『60年代の過ぎた朝 (アメリカ・コラムニスト全集)』もありますね。夫は"The Panic in Needle Park"を書いた脚本家のジョン・グレゴリー・ダン。実はアル・パシーノ主演のこの映画『哀しみの街角』ではディディオンもシナリオに参加しています。
 さて"Slouching to Bethlehem"はイエーツの詩集"Michael Roberts and the Dancer"の中の'The Second Coming'の一節です。この部分には'Widening Gyre'という詩句もありスペンサー・シリーズの『拡がる環』のタイトルにも使われています。
 どうも「中心が失われる」という詩句も含めて黙示録的、終末的、ポストモダン的ビジョンを露表すのに使われるようで、今は思い出せないけれど、フィリップ・K・ディックの作品のエピタフにも使われていたような気がします。
若き日のイエーツ。