制度への不信

 Gerald GraffのProfessing Literature ( U. of Chicago P, 1987, 2007)を流し読んでいます。昨年の学会で耳にして、その後購入したのだが、どの学会のどの研究発表かシンポジウムか覚えていない。
 とにかく英文学をどう教えるかという事に関しては、この本の初版の1987年だけではなくその100年前にも熱い議論があったようだ。教え方もそうだけれど、英文学部・英文科の歴史自体もそう古い訳ではない。
 日本の大学関係者(文学部教員など)の間でも、若者の文学離れが嘆かれているけれど、文学研究のよって立つところ、それを制度的に支える文学部そのものが、成立した時にはその時代にある種の要請があったのだろうが、その必要性が薄れたと思われる現在、衰退していくのも仕方がない事なのかも知れない。
 自分も当事者の一人なのにそんな冷めた事を言っていいのという声も自分の内部にはある。人文学部に数年前に移動した時には、英語を話せるようになりたという学生を文学好きにしたいなとも思った。しかし昔なら文学に向かった志向が今では漫画・アニメ。ゲームなど、物語性をもつ別なメディアに流れて行く。
 自分が30代の教員なら後30年の流れを見据えなければならないのかも知れないけれど、アラフォー教員としては、時代の趨勢を嘆くよりももう少しだけ本質的な事柄を考えていたい。タイトルに掲げた制度への不信が根強くある。英文学部だってそう古くないある時にできた制度で、それって永遠に続くものではありえない。出来た時には意味があっても、その意味が時代の中で変わったり薄れて行っても仕方がない事なんですね。
 制度ができるとそれ自体が権威化し、絶対化する傾向があるので、相対的に見る視点を意識的に持たないと、その制度の意味も考えずに守る事、維持する方向に自動的に向かってしまう。そんな事をグラフ教授の本を前にして考えてみました。グラフさんって2008年のMLA会長だったんです。という事はアメリカの文学・英語学研究者の親玉で、学会という制度の象徴でもあったんだ。