アオヤギ君と逃走論

 『ゴールデンスランバー』で首相暗殺犯に仕立て上げられた青柳は、仲間に助けられながら逃げ続け、小説の最後において逃走が続く苦い結末を迎える。何故青柳は逃げ続けるか。警察を巻き込んだ得体の知れない権力に一市民が抵抗する事は小説ならともかく、実は小説でもリアリティを重んじれば、不可能である。
 とすれば玉砕覚悟で立ち向かう事もできない不可視の権力に対して、絶望の手前での残された選択肢は逃走という事になるだろうか。「とうそう」と入力して最初に出てくる変換は「闘争」だが、「逃走」もまた無力な個人の「闘争」の一形態になりうる。青柳の友人・森田は「逃げろ。無様な姿をさらしてもいいからとにかく逃げろ。」と言い、自分は殺される。痴漢が大嫌いな父親は「ちゃっちゃと逃げろ」と煽る。
 思い出すのは1980年代にニュー・アカ(デミズム)で名声を博した浅田君の「パラノ型」と「スキゾ型」という二つの類型を提示した『逃走論』(1983)。懐かしいです。昔は難しかったような記憶があるが今読むとすっきり頭に入ってくる頭脳が明晰になった(そんな事はありえない)のではなく、今まで読んできた、考えてきた、いろんな事がうまく結びついてcrossrefer的に理解に導かれる。。年をとった唯一の利点はこれです。
 さて偏執型(パラノイア)のパラノは、過去のすべてを積分=統合化(integrate)して背負ってしまう。蓄財・定住がその典型ですね。その逆のスキゾは分裂型(スキゾフレニア)は、微分=差異化(differentiate)して、今の状況を鋭敏に探りながら、一瞬一瞬に次に進む方向を決めて行く。
 このポストモダン的な分裂・刹那・不確定・混沌といったパラダイムは、青柳君と現在と僕をつなぐように思えてしまう。