最終講義と送別会

 昨日は退職される2先生の最終講義と送別会。講義は学生にも聞いてもらいたいが、時期的には定期試験が終わり、一般入試の前の補講期間に開催するしかない。送別会も3月中旬くらいがいいのだけれど、最終講義の当日の夕方というのも悪くない。
 さて英語学のK先生の講義は、言語学のここ30年ほどの推移をたどってみるというものでした。生成文法から認知言語学へ。われわれの文学や文化研究においても研究方法や理論の趨勢に影響されるけれど、英語学は理論そのものが研究対象になるのだろうか。
 あの理論は間違っている、こっちの理論の方が正しいとか、不毛な議論のようにも不遜にも思ってしまった。科学的な方法を援用した疑似科学に見えたりもして。しかし今朝地下鉄を待ちながら考えてみると、文学研究の文学テクスト、文化研究の文化(映画や音楽、または現象)に対して、英語学は固定した言語テクストが対象となるのではなく、そのテクストを構成している言語の機能や意味やその生成が研究対象となるので、それをどのように扱うか、言語そのものをどう捉えるかが、つまり研究方法や研究理論そのものが重要になるんだろうなと思い当たった。間違っているかも知れませんが。
 さてO先生の最終講義はアメリカ現代史についてのご自分の研究史を概略された。一橋大学に外部から院生指導に見えた本田創造を恩師として、黒人差別を主たる研究テーマとしてきた。しかしある時点から人種よりも階級の問題に着目するようになったらしい。最後に影響を受けたマルクスの『資本論』について、アメリカの黒人差別や階級闘争に触れた部分の説明で、O先生の思想史も理解できた。またマルクスアメリカの労働問題にも言及していたのは興味深い発見だった。
 この辺りの事情については、O先生の指導のもとに北海学園の大学院で学んでいたN君からも聞いていた。若い時に安保闘争に遭遇した世代の一人として筋金入りのマルクス主義者になったのだろう思う。その一貫性に敬意を払うと共に、階級闘争以外の視点はないのかなとの微かな疑問も。
 僕は主催者として司会を務めたが、学会の司会の時よりも緊張して余裕がなかった。型通りの進行しかできず残念。夕方はプリンス・ホテルのパミール館で送別会。ここの料理は美味しい。一昨日と並んで昨日も寒くて2次会はなしで、家に急行。