アメリカン・ミザンスロピー

 ロバート・B・パーカーのウエスタン小説『アパルーサの決闘』、『レゾリューションの対決』、『ブリムストーンの激突』を読んでいて、西部小説や西部劇における女のいない世界における男同士のつながりはホモ・ソーシャルなものだと思っていた。ジョン・フォードの西部劇やハワード・ホークスのアクション映画を想像してもらえば分かると思う。
 しか内田樹さんの『映画の構造分析』を読むと、「アメリカン・ミソジニー」という第3章でその辺りの事は「女性嫌い」という括り方で詳しく説明しています。つまりMen without Womenの世界の方が男にとっては居心地がいい。女性の参入はいちおう歓迎されるが、またはその振りをするけれど、最終的には女性が去って、男だけの仲間に戻り、ほっとするという構図。
 自立した異性を認め交流する事を嫌うアメリカ人男性の男同志の交友は、同じ価値観を持つ人間としかソーシャライズできない、ミザンスロピー(人間嫌い)ではないかなというのが僕の意見です。もう少し正確に言うと他者を理解できない。これは僕らでもそうだけれど、気の合う仲間っていのは自己の延長線上の存在なんだと思う。それはそれで心地よいけれど、少し違和感のある人と、外部の人と交流できない人の知識や経験の質と量は貧しくなってしまうのではないだろうか。
 これについてはまた考えながら、書き足していこう。